【豊臣兄弟!】秀吉と「義兄弟の契り」を結んだ中川清秀、賤ヶ岳の戦いでの壮絶な最期… (2/4ページ)
元服して通称を瀬兵衛(せひょうゑ)と名乗り、はじめは摂津国人の池田勝正(いけだ かつまさ)に仕えました。
永禄11年(1568年)に織田信長(小栗旬)が上洛するとこれに従い、元亀元年(1569年)に三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・石成友通)らが足利義昭(尾上右近)を襲撃した本圀寺の変では、明智光秀(要潤)と共に奮闘して戦果を上げています。
やがて主君の池田勝正が弟の池田知正(ともまさ)に追放されると、一時織田家と敵対関係となりました。
元亀2年(1571年)には同僚の荒木村重(トータス松本)と連合で和田惟政(玉置孝匡)を敗死に追い込み、清秀は攻め落とした茨木城(大坂府茨木市)の城主となります。
賤ヶ岳で壮絶な最期
その後は高山右近(市川知宏)と共に、織田家に臣従した村重を担ぎ上げ、弱体化していた和田氏・茨木氏・伊丹氏・池田氏を圧倒して摂津一国の切取りに成功しました。歴戦の武功により、清秀は4万とんで400石を領することになったそうです。
しかし天正6年(1578年)10月に村重が信長に叛旗を翻すと、清秀もこれに同調しました。が、翌11月には茨木城を包囲され、織田の軍門に降ったと言います。