【豊臣兄弟!】秀吉と「義兄弟の契り」を結んだ中川清秀、賤ヶ岳の戦いでの壮絶な最期… (3/4ページ)
その後は織田家臣として丹羽長秀(池田鉄洋)や池田恒興(堀井新太)の旗下に配属され、各地を転戦しました。
織田家中では秀吉と親密な関係を築いていたようで、天正8年(1580年)6月5日、秀吉と清秀の間で義兄弟の契りを交わしています。
やがて天正10年(1582年)に本能寺の変で信長が横死を遂げると、清秀は秀吉に与して高山右近と共に山崎の合戦で先鋒を務めました。
率いていた兵3,000のうち600を天王山の争奪戦に派遣し、勝負の分かれ目を制するため敢闘したと言います。また敵将の御牧三左衛門(みまき さんざゑもん)や伊勢貞興(いせ さだおき)らを討ち取る武功を立てました。
しかし激闘につぐ激闘で疲弊してしまったため、追撃戦には参加できず、肝心の光秀らを取り逃がしてしまいます。
翌天正11年(1583年)に秀吉が勝家と対決した賤ヶ岳の戦いでは、大岩山砦の守備を担当していました。しかし4月20日早朝に佐久間盛政の急襲を受け、敢闘むなしく討ち取られてしまったそうです。享年42歳。
中川清秀・基本データ