富岡製糸場を消滅から救った男。派手な英雄の影で「日本の近代化」を現実にした楫取素彦の執念【後編】 (2/4ページ)
歌川国輝 (2代目)『上州富岡製糸場』(1872年・明治5年)
ただ、この富岡製糸場には、やがて問題が出てきます。官営工場ですから、国が運営するにはお金がかかる。設備の維持も必要ですし、外国人技師を雇う費用もかかります。
明治政府の財政が厳しくなってくると、
「この工場を、いつまでも国で持っている必要があるのか」
という話が出てきました。払い下げや閉鎖も検討されるようになります。
ここで楫取が動きます。1881(明治14)年、当時の農商務卿の西郷従道に対して、「富岡製糸場御処分之儀ニ付意見上陳書」という意見書を提出しました。富岡製糸場を残すべきだ、と政府に訴えたわけです。
なぜ楫取は、そこまで富岡製糸場にこだわったのでしょうか。単に「立派な工場だから」ということではありません。富岡製糸場では、新しい製糸技術が使われていました。そこで技術を学んだ人たちが各地へ戻れば、その技術も広がっていく。富岡製糸場を一つの工場として見るのではなく、群馬の製糸業全体を育てていくための場所として見ていたのでしょう。
1882(明治15)年、富岡製糸場は官営を続けることになりました。その後、1893(明治26)年に三井家へ払い下げられるまで、官営工場として存続しています。もちろん、富岡製糸場が残ったことを楫取一人の功績にすることはできません。ただ、県令という立場から、その重要性を政府に訴えた。