富岡製糸場を消滅から救った男。派手な英雄の影で「日本の近代化」を現実にした楫取素彦の執念【後編】 (3/4ページ)
これは楫取の群馬県政を考えるうえで、覚えておきたい仕事です。そして、楫取が力を入れたのは産業だけではありませんでした。もう一つが、「教育」です。
産業を支える「教育」明治政府は1872(明治5)年に学制を公布し、全国に学校を作ろうとしていました。ただ、学校制度を作ったからといって、すぐに子どもたちが学校へ通うわけではありません。当時の農村では、子どもが家の仕事を手伝うのは珍しいことではありませんでした。農作業を手伝ったり、家の仕事をしたりする子どもに、
「明日から学校へ行きなさい」
と言っても、親としては簡単に納得できないでしょう。そこで群馬では、家庭を訪問して就学を勧めるなど、地道な取り組みも行われました。こうした努力もあって、群馬の就学率は高まっていきます。養蚕や製糸業を育てる一方で、学校も整えていく。この二つを並べてみると、楫取が群馬で何をしようとしていたのか、少し見えてきます。
どれだけ立派な工場を作っても、そこで働く人がいなければ産業は続きません。技術を覚える人が必要ですし、その技術を次の世代へ伝える人も必要です。そう考えれば、産業と教育は別々の話ではありません。
楫取が最初からそこまで明確な計画を持っていたのかどうかは、慎重に見たほうがいいでしょう。ただ、実際に県令として取り組んだ仕事を見ると、養蚕や製糸業と教育の両方に力を入れていたことは分かります。
幕末の長州では、さまざまな人の間に立って政治を動かしていた。明治になれば、今度は一つの県の中で、人や産業を動かしていく。
仕事の中身は変わっても、人と人の間に入って物事を進めるというところでは、どこかつながっているようにも見えます。
地域の社会問題にも向き合う群馬県令としての仕事は、それだけではありません。群馬県内の廃娼問題にも取り組んでいきます。
1882(明治15)年には、伊香保村を対象に廃娼令を出しました。その後、廃娼の動きは県内へ広がっていきます。そして、群馬県令を退いた後も、楫取の仕事は続きました。元老院議官、宮中顧問官、貴族院議員などを歴任し、1887(明治20)年には男爵となります。1912(大正元)年、楫取は、84歳で亡くなりました。