『逃げ上手の若君』わずか16歳で公卿へ!西園寺公宗の栄光と、鎌倉幕府滅亡が狂わせた生涯【前編】 (3/5ページ)
元徳2(1330)年2月には権大納言を兼任して、3月に正二位に昇っています。
要職を歴任し、朝廷内で発言力のある公宗にとって、将来は明るいものでしかありませんでした。
西園寺禧子と後醍醐天皇。2人の存在は、公宗の絶大な権勢の淵源となった(『太平記』絵巻より)。
後醍醐天皇の倒幕計画発覚!鎌倉時代、突然の終焉…明るいかに見えた公宗の人生ですが、後醍醐天皇の取った行動によって少しずつ暗転していきます。
元徳3(1331)年4月、後醍醐天皇による倒幕計画が発覚。鎌倉幕府から長崎高貞らが追討使として派遣される事態となりました。
しかし後醍醐天皇は京の都を脱出して笠置山に籠城。それに呼応する形で河内国赤坂城において楠木正成が挙兵します。
幕府は一度は鎮圧を宣言。後醍醐天皇は捕縛されて隠岐国へ流刑に処される事となりました。
このとき、皇子たちは公宗の邸宅に一時預けられています。それだけ公宗の立場が重く見られていたことの証左であり、幕府側から信頼されていたことがわかります。
しかし事態はこれで収束しませんでした。
元弘3年/正慶2(1333)年、後醍醐天皇は流刑地を脱出。楠木正成や平野将監といった悪党(武装集団)までが千早城や上赤坂城に兵を挙げます。
このうち、平野将監は西国の悪党の惣領格と呼ばれた人物で、公宗の家人でもありました。