『逃げ上手の若君』わずか16歳で公卿へ!西園寺公宗の栄光と、鎌倉幕府滅亡が狂わせた生涯【前編】 (2/5ページ)
西園寺家は、代々関東申次(かんとうもうしつぎ)という役職を継承。これは鎌倉幕府の六波羅探題と並んで朝廷と幕府の連絡・交渉・調整を行う役職です。
朝廷の重要事項の決定においては、関東申次を経て幕府の裁可を得る事になっていました。
その中には皇位継承や宮中人事も含まれており、関東申次の存在と立場がそこに深く関わっていました。
当然、朝廷内部における発言力も高く、その存在感から敵視されることもあったと伝わります。
当時の皇位継承問題においては持明院統と大覚寺統が対立。西園寺家は持明院統寄りの立場であったため、大覚寺統は関東申次を無視して幕府と交渉するなどしています。
このため、大覚寺統出身の後醍醐天皇は西園寺公宗をあまり快くは思っていませんでした。
しかしそういった状況とは裏腹に、公望は順調に出世を重ねていきます。
正中2(1325)年12月18日には権中納言(権官という定員外の中納言)に叙任。恐らくはこの前後に従三位となったと考えられます。
数え年16歳という若さで公卿(三位以上)となり、朝廷の意志決定に携わる立場となりました。
翌正中3年/嘉暦元(1326)年7月24日には春宮権大夫という皇太子の教育機関の要職を拝命。同年11月4日には正三位となって正式な東宮大夫に転じています。
実は後醍醐天皇の中宮(皇后)は、西園寺家出身の西園寺禧子(さちこ)であり、公宗にとっては大叔母に当たる人物でした。
後醍醐天皇との関係には一抹の不安要素がありつつも、それを解消あるいは緩和するだけのつながりと政治力が、公宗にはあったようです。
嘉暦2(1327)年には従二位に昇叙。