『豊臣兄弟!』陰に隠れた英傑!「小牧・長久手の戦い」に散った26歳の勇士・池田元助の壮絶な最期 (3/5ページ)
やがて天正10年(1582年)には明智光秀の与力として甲州征伐(武田勝頼討伐)に従軍し、続いて秀吉の援軍として中国攻めの準備を進めている最中に、本能寺の変が起きました。
本能寺後は秀吉家臣として活躍
元助は「中国大返し」で姫路城へ舞い戻った秀吉と合流し、父たちと共に山崎の戦いで光秀を撃破します。
明智滅亡後の清須会議では、論功行賞として父・恒興が大坂・尼崎・兵庫12万石を与えられました。恒興は元助に伊丹城を、輝政に尼崎城を任せます。
その後も父に従って秀吉に従い、天正11年(1583年)に秀吉が織田信雄(信長次男)と組み、織田信孝(信長三男)と柴田勝家を滅ぼした賤ヶ岳の合戦でも武功を立てました。勝利の後に秀吉は大坂へ入り、恒興には美濃国大垣城が与えられ、元助には岐阜城が与えられます。
続く天正12年(1584年)には、秀吉の専横に不満を持った織田信雄が、徳川家康と共に秀吉へ対抗した小牧・長久手の戦いにも従軍しました。
恒興らは緒戦(羽黒の戦い)で失態を演じたことから、これを挽回しようと「三河中入り」作戦を献策します。