「仙境のナイチンゲール」志田周子——雪深い“医者のいない村”を支え続けた女性医師の生涯【前編】 (2/4ページ)
山深い大井沢から山形の女学校へ進む。それだけでも、当時としては目立つ存在だったのでしょう。
「村の女の子が女学校へ行く。」
周子は、そんな道を選びました。そして、さらにその先へ進みます。
東京へ、そして医学の道へ1928(昭和3)年、周子は東京女子医学専門学校へ進学しました。現在の東京女子医科大学につながる学校です。山形の山村から東京へ出て、医学を学ぶ。
昭和の初め、女性が医師になることは、今ほど当たり前のことではありませんでした。まして、地方から東京へ出て医学を学ぶとなれば、本人の意志だけでなく、家族の理解も必要だったはずです。
1933(昭和8)年、周子は東京女子医学専門学校を卒業。医師としてのキャリアを歩み始めます。ここまでを見ると、そのまま東京で医師を続けていても不思議ではありません。ところが、故郷から声がかかります。
「帰ってきてほしい」。
父・荘次郎からの頼みでした。大井沢には医師がいなかった当時の大井沢村は無医村でした。現在の西川町大井沢です。山深い土地で、冬になれば雪に覆われる。病気になったからといって、すぐに病院へ行けるような場所ではありません。医師がいないということは、村で暮らす人たちにとって、それだけで大きな不安だったでしょう。父が娘に戻ってきてほしいと頼んだ背景にも、こうした事情がありました。
周子が大井沢へ戻ったのは、1935(昭和10)年のこと。26歳のときです。このとき、父との間には「3年でいいから」という約束がありました。もともとは、「3年だけ」。そのつもりで帰ってきたのです。
26歳の女性医師が、村で一人大井沢へ戻った周子は、村で唯一の医師となりました。今のように、体調が悪ければ車で病院へ行ける時代ではありません。患者のところまで医師が出向くこともあります。往診です。
雪の中を歩いたこともあったでしょう。道が悪い日もあったでしょう。それでも、病人は待ってくれません。医師が一人しかいないのですから、周子が診なければならない患者は次々にやってきます。
26歳の女性が、村の医療を背負う。簡単な仕事ではありません。しかも、東京で医学を学んだばかりです。