『豊臣兄弟!』北条氏政が『逃げ若』北条時行の子孫説は本当?2作品をつなぐ「北条」の歴史的接点 (5/7ページ)
氏綱は正室に養珠院(鎌倉北条氏の末裔・横江氏の出身とも言われる。諸説あり)との間に氏康を設けています。
つまり血筋で言えば、小田原北条氏は鎌倉北条氏と確かに繋がっていたことになります。
時行が後北条氏の祖になった系図もあった
軍記物語『豆相記』では興味深い伝承が残されています。
南北朝時代、北条時行は処刑されずに伊勢へと逃れたというものです。時行の子・行氏から時盛、行長、氏盛へと血筋が続き、氏盛こそ伊勢宗瑞、つまり北条早雲だとされました。
この系図が正しければ、氏政は時行の子孫となります。しかし、この系譜を裏づける同時代史料は残されていないのが現状です。
時行の処刑を伝える記録がある一方、宗瑞については伊勢盛定の子であることを示す研究が進んでいます。
したがって、時行から宗瑞へ続く系図を史実として扱うことはできません。
古い北条氏と新しい北条氏を結びつける、後世の系図伝承と判断すべきでしょう。
北条時行と北条氏政は、確実な史料に基づけば別系統の一族です。正確には、氏政の祖先が鎌倉北条氏の名字と権威を受け継いだと見るべきでしょう。
時行の戦いから約200年後、氏政は、復活した「北条」の名を背負って豊臣秀吉と対決します。
天正18(1590)年、小田原城は開城。氏政は切腹し、後北条氏による約100年にも及ぶ関東支配も終焉を迎えました。