将軍がいなくても京都は回る!?「将軍なき政治」を成立させた三好長慶の凄みと崩壊の理由 (3/4ページ)
長慶は彼らを使って政治を進め、村同士の用水権をめぐる争いまで自ら調停しています。
もちろん長慶は国人出身でしたが、朝廷文化を軽視していたわけではありません。天皇からも信頼を得ていたようです。
その後、長慶と足利義輝は和睦もしています。義輝は1558年に京都へ戻りました。
しかし、それで長慶の政治が終わったわけではありませんでした。将軍が京都へ戻ったあとも長慶が政権の実権を握り続けたのです。
つまり、将軍が存在していても、政治を動かす人物は別にいるという状態が生まれていたのです。
当時は全国の守護大名が、自分の領地を直接支配する戦国大名へ変わりつつありました。幕府や将軍も、領地支配を正当化するための権威として利用される存在になっていたのでしょう。
長慶は京都に居続けることもありませんでした。阿波を弟に任せ、越水城、芥川城、飯盛山城と居城を移しながら、京都と領国を結ぶ地域を押さえています。
これほど居城を移す例は当時としては珍しいものでした。政治だけでなく軍事でも機動性を重視した可能性があります。
長慶の死ところが、ここから政権の歯車が狂い始めます。1564年、末弟の子である義継を養子に迎えた直後、長慶は43歳で病死しました。
長慶の死後に存在感を強めたのが、家老だった松永久秀です。