【豊臣兄弟!】千利休と羽柴秀次が切腹…2人の介錯を務め「首」を斬った武将・雀部重政の悲劇的な末路 (2/3ページ)
秀吉の天下一統を見届ける
重政は秀次の身辺を警護する馬廻組頭に抜擢され、尾張国に2千石の所領を賜りました。
天正12年(1584年)に勃発した小牧・長久手の戦いにも従軍し、窮地に陥った秀次を懸命に守り抜いたことでしょう。
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『豊臣兄弟!』ついに「秀長」誕生!織田信雄のその後、丹羽長秀の最期は?第35回「小牧・長久手の戦い」深堀りまた武辺の奉公だけでなく茶の湯も嗜んでおり、千宗易(千利休)に弟子入りしていたそうです。
その後も天正13年(1585年)の紀州征伐・四国征伐に従軍し、秀次の身辺警護を務めました。
※天正15年(1587年)の九州征伐では秀次が京都の留守居役を務めているため、出陣はしていません。
そして天正18年(1590年)の小田原征伐に従軍して秀吉の天下一統を見届けます。
同年10月には従五位下・淡路守の官位を賜り、また豊臣の姓を許されました。この辺りが、重政にとって人生のピークだったと言えるでしょう。
秀次に殉じた悲劇の最期重政の運命は、天正19年(1591年)1月に羽柴秀長(小一郎)が世を去ったことがキッカケで暗転していきます。
天正19年(1591年)2月28日に千利休が切腹を命じられた際、重政はその最期を見届ける役を命じられました。
一説には重政が介錯を務めたと言われ、自分の手で師匠の命を絶ち斬るのは、想像を絶する苦痛だったことでしょう。
やがて秀吉に実子の拾丸(後の豊臣秀頼)が誕生すると、それまで後継者候補となっていた秀次の立場が危うくなります。
