【逃げ上手の若君】最大の怨敵・足利尊氏は“ほぼ北条の身内”だった?100年続いた血縁と裏切りの真実
「週刊少年ジャンプ」にて2021年より連載され、現在TVアニメ第2期も放送中の『逃げ上手の若君』には、魅力的な人物や歴史的な出来事が数多く登場します。特に敵役として注目されているのが、足利尊氏(あしかがたかうじ)です。
尊氏は源氏の名門に生まれ、北条氏とは深いつながりがありました。しかし後醍醐天皇が倒幕の兵を挙げるとこれに同心し、六波羅探題を攻め滅ぼします。
足利尊氏と北条氏は、どのような関係だったのか。そのつながりの源とはなんだったのか。
なぜ裏切る道を選んだのか。足利尊氏と北条氏の絆について見ていきましょう。
足利尊氏。執権北条氏との血筋は近く、自身も正室を北条氏から迎えた。
源氏の名門と執権一族が出会う時!足利氏は、源氏の名門としてかつて源頼朝とも肩を並べた存在でした。
しかし鎌倉時代に入ると、足利氏は幕府に臣従。御家人として生きる道を選び、代々執権北条氏と婚姻を重ねていきます。
両家の関係は尊氏よりはるか以前にさかのぼります。
足利氏二代目の足利義兼は、初代執権・北条時政の娘と結婚。その女性は源頼朝の妻・北条政子の妹にあたります。
義兼の子・足利義氏は当然ながら北条時政の外孫となり、北条氏の血を受け継いでいます。
義氏はさらに三代執権・北条泰時(『鎌倉殿の13人』の主人公の息子)の娘を妻にしました。
つまり足利氏は、鎌倉幕府初期から北条氏と二重、三重の婚姻関係を築いていたことになります。
尊氏の祖父にあたる足利家時も北条時茂の娘を正室として迎えました。この二人の間に生まれたのが尊氏の父・足利貞氏です(『難太平記』には、尊氏の祖父・家時が「自分の三代後までに天下を取らせたい」と祈願して自害したという伝承があります)。
したがって尊氏から見れば、北条氏とは父方の祖母の出身家であり、自身の血統と深く関わる存在でした。
尊氏自身も正室に迎えたのは、赤橋北条氏の娘である赤橋登子です。彼女の生んだ義詮は、のちに足利家を継ぐ存在となっています。
しかも登子の兄・赤橋守時は、鎌倉幕府の最後の執権に就任。特に北条氏との結びつきが色濃くなったのが尊氏の代であったと言えますね。
特に尊氏と北条氏のつながりで象徴的なものが、名前です。
尊氏の前名は「高氏」と言いました。読みは同じですが、その由来は北条氏に由来しています。
高氏は元服の際に、当時の鎌倉幕府の執権・北条高時(『逃げ上手の若君』北条時行の父)から偏諱を拝領。高氏と名乗った経緯がありました。
中世武家社会においては、主君から名前の一字を受けることは、両者の主従関係や密接なつながりを意味します。
北条氏の身内?それとも裏切り者?その真意は…
鎌倉時代の平和は、1人の天皇の倒幕計画によって終わりを告げます。
元弘元(1331)年、後醍醐天皇が鎌倉幕府の打倒を計画していることが露見。幕府は追討使を派遣して調査に当たらせる事態となりました。
これを受けて後醍醐天皇は京都を脱出して笠置山に籠城。河内国では悪党(御家人の説あり)・楠木正成が挙兵してこれに応じます。
幕府は一度は鎮圧するものの、倒幕の機運が衰えることはありません。
元弘3(1333)年、鎌倉幕府は高氏に西国への出陣を命令。後醍醐天皇方の倒幕軍鎮圧を、高氏に期待していました。
当時の執権は、高氏の義兄・赤橋守時です。血筋や婚姻関係からしても、高氏がどれほど信頼受けていたかがわかります。
高氏は命令を受けて兵を率いて出陣。やがて丹波国篠山に至った高氏は、ここで幕府へ反旗を翻ることを決意します。
同年5月、高氏は引き返して京都に進撃。幕府の出先機関・六波羅探題を攻撃して滅ぼしました。
同月には、関東において挙兵した御家人・新田義貞が鎌倉に進撃。これを迎撃したのが、高氏の義兄で執権である赤橋守時でした。
この守時の出陣は、高氏の翻意によって自身も裏切り者扱いされるのを避けるためのものであったようです。
戦いに敗れた守時は、戦後に自刃。やがて鎌倉は新田軍によって陥落し、北条氏一族は東勝寺で自害して、ここに鎌倉幕府は滅亡しました。
高氏は、後醍醐天皇の諱である「尊治」から一時を拝領。「尊氏」と名乗ることを許されます。
足利尊氏が、北条高時の偏諱と決別した瞬間でした。
しかし北条氏出身の赤橋登子はその後も尊氏の正室であり続けます。
二人の間にはのちの室町幕府二代将軍となる足利義詮や、初代鎌倉公方となる足利基氏が生まれて後世にその血筋を伝えました。
100年以上に渡り、複雑に絡み合った二つの名門武家の足利と北条。その二つが最後は敵味方に分かれて争い、最後は二つの血筋が後世へと受け継がれる。
二つの家のつながりは、幾多の物語を生んで我々に往時の姿を伝えています。
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