【豊臣兄弟!】清兵衛(伊藤健太郎)&盤覚(坂口涼太郎)は実在?史実で探る「秀長vs興福寺」激突の裏側

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【豊臣兄弟!】清兵衛(伊藤健太郎)&盤覚(坂口涼太郎)は実在?史実で探る「秀長vs興福寺」激突の裏側

大河ドラマ「豊臣兄弟!」第37回『秀長の国』。秀長(仲野太賀)は、大和一国を与えられ大和郡山城へ拠点を移します。

「侍なんか大嫌いじゃ!」と殺された友人を抱いて叫んでいた農民の小一郎が、大和・紀伊・和泉を有する大大名になっていくとは、感慨深いですね。

けれども大和では、寺社が絶大な権力を持ち利権を独占。

高い年貢に苦しむ領民を救おうと乗り出す秀長ですが……。

今回、領民側のキーパーソンは、庄屋・石川清兵衛(伊藤健太郎)。そして、興福寺との交渉役のキーパーソンは、坊官・盤覚(ばんかく/坂口涼太郎)でした。

通常、年貢は「領主」に納めるものなのに、なぜ清兵衛は、興福寺に「過分な年貢」を払い続けたのでしょう……清兵衛と盤覚、そして史実を通して、戦国時代の大和の村・寺・秀長の関係を探ってみました。

田植えの風景(一部) 歌川広重 public domain

村の庄屋・石川清兵衛は実在人物?

大和の村の代表者「石川清兵衛」という人物は、今のところ、当時の史料では確認できません。

公式サイトによると、

大和郡山の興福寺領にある村の庄屋。仏罰を恐れ、田の広さに見合わない額の年貢を興福寺に納めてきた……

という人物。

興福寺領の村の庄屋という立場を通し、当時の領民の苦労や秀長との折衝などを描くために設定された、ドラマオリジナルの人物かと思います。

ちなみに「庄屋」という呼び名は、中世の荘園の「荘(庄)」に由来、もともとは荘園で管理にあたる者の屋敷や役目を指す言葉が由来だったそう。

江戸時代になり広く定着したものですが、西日本は庄屋、東日本は名主と呼ぶことが多かったといわれています。

村の“長”として働く役人のようなもので、領主の側からすれば村に年貢を納めさせる窓口、村人からすれば村の暮らしを取り仕切る総まとめ役。

(余談ですが、「今日から俺は!!」の伊藤VS今井の戦いを思い出す人もいるのでは…)

石川清兵衛(伊藤健太郎)(NHK「豊臣兄弟!」公式「X」より)

石川清兵衛は、なぜ興福寺に年貢を納めていたのか

年貢と聞くと、“領主”に納めるものとイメージすることが多いもの。けれども、清兵衛の村では田の広さに見合わないほどの高い年貢を、払い続けていました。

その背景にあるのが、戦国時代の大和の土地は、興福寺が支配する領地だったためです。

平安時代には春日社の実権を手中におさめ、大和国を領するほどになり、また、鎌倉幕府・室町幕府は大和国に守護を置かず、興福寺がその任に当たりました。文禄4年(1595)の検地では「春日社興福寺」合体の知行として2万1千余石と定められ、徳川政権下においてもその面目は保たれました。(興福寺公式サイト「興福寺について 概要」)

大和の村人にとって興福寺は単なる宗教施設ではなく、土地を支配し年貢を収める相手でもありました。

興福寺に属する在地の武士たちは「衆徒」(※1)、春日社に属する者たちは「国民」と呼ばれ、寺社の支配を支える存在となっていました。

戦国時代になると、筒井順慶ら有力武士も興福寺の勢力を背景に、大和で大きな力を持つようになっていったと伝わります。

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※1 衆徒:大和国では、国内の武士を自寺の衆徒として組み入れたために同国の武士(大和武士)を指して衆徒と呼ぶ

興福寺全景(撮影:高野えり)

高い年貢を納め続けたわけは

清兵衛のポイントになるのは「仏罰を恐れ高過ぎる年貢を納めていた」という部分です。

年貢は「神仏への捧げ物(仏物・神物)」

中世の寺社領では、土地やそこから得られる収穫は「神仏との結びつき」のなかで捉えられることもありました。

年貢も、現代の税金とは異なり、寺社の運営や法会・祭祀などを支える意味を持っていました。

「神仏の土地から得たものだから納めなければ」という意識が、年貢を納める動機になっていたのです。

興福寺の圧倒的な支配力と保護

前述したように、興福寺は衆徒・国民を組織し大和で大きな政治的・軍事的影響力を持っていました。

寺社領の側から見れば、年貢を納めることは単なる経済的な負担だけではなく、支配関係を維持する意味も持っていたと考えられます。

社会的・慣習的な拘束

荘園の仕組みそのものが「寄進」を基盤に成り立っていました。

年貢の減免を求める動きはあっても、年貢制度そのものを否定することは難しかったのかもしれません。

年貢米。(photo ac)

田の広さと年貢が合わなくなった理由

それでは、なぜ「田の広さに見合わない年貢」が生まれたのでしょうか。

その理由として挙げられているのは「古い土地台帳」です。

中世の荘園では、年貢の基準となる土地面積や斗代(段当たりの年貢量)は、過去の検田帳(検注帳)など、古い帳簿により把握されていました。

けれど、長い年月が経てば、実際の耕作面積や収穫量と帳簿上の数字にずれが生じることもあります。

それでも、寺社など領主側は「古くからの権利」とし、簡単には減額を認めなかったケースもあったようです。

「昔からの慣習・権利」を変えるのは簡単ではなく、しかも相手は宗教的・政治的権威のある興福寺。

領民たちは、年貢の額が高くても、簡単に値下げを求められるような状況ではなかったのでしょう。

寛永年間の検地帳(wiki)

秀長は興福寺から1万石もの所領を没収

天正13年(1585)、秀長は大和郡山城へと拠点を移し、新たな国づくりに乗り出します。

秀長は寺社に対して『指出』を命じました。

指出とは、領主たちが支配する土地や収入などを申告するための文書で、不正点は書き直しを命じられます。もし、偽りの申告をすると土地を没収することもありました。

新しい領主となった秀長は、土地と収穫を把握し見直しを考えたとみられます。

同年、寺院は1日がかりで「指出」を書き出すものの秀長はその内容を問題視。『多聞日記』によると、興福寺から1万石もの所領を没収しました。

その後も再提出を命じ、同年9月には興福寺の所領をさらに減額し、最終的には興福寺の領地は五分の一ほどになったそうです。

秀長に謁見する興福寺一乗院の「盤覚」

第37回では、秀長の交渉相手として登場したのが、興福寺一乗院の坊官・盤覚(ばんかく/坂口涼太郎)です。

ドラマでは、盤覚は興福寺の使者として、大和の国主となった秀長に謁見します。

盤覚についても、実在の人物かどうかを裏付ける史料は確認できないようです。

ただし、彼が仕える一乗院は興福寺の二大門跡の一つ。摂関家との関係を持ち、門主には貴族や皇族の子弟が入る格式の高い寺院でした。

そして坊官とは、門跡に仕えて寺の実務を担う在俗の僧侶のこと。寺領の管理や年貢、文書、対外交渉など、門跡を運営するための仕事をしていました。

そう思うと、興福寺の使者として、盤覚というキャラクターを置いた設定も納得ですね。

盤覚と秀長。(NHK大河「豊臣兄弟!」公式サイトより)

秀長の検地は「国の仕組み」を変えた

領民たちの立場からすると、秀長の政策は「年貢を安くしてくれる!」と喜べる状態ではなかったようです。

今までの大和では、寺社の権威が土地支配を支えてきたのに、武家の領主が土地を調査して支配する領地へ…

秀長は、国の仕組みそのものを変えようとしたのです。

新しく吹いてきた風は、人々に希望を運んで来たというより、長年続いてきた寺との関係が壊れる恐れや不安を抱かせたかも。反発する人が出てくることもあるでしょう。

第37回『秀長の国』。(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)

石川清兵衛と盤覚が映す「大和の転換点」

石川清兵衛も盤覚も、現在確認できる史料からは、実存を裏付けられません。それでも、二人のキャラクターを通して、秀長が領主となった当時の大和の状況が見えてくるのではないでしょうか。

盤覚は、興福寺側から、清兵衛は村側から、そして 秀長は大和国の仕組みを変える領主として、この変化に向き合いました。

第37回『秀長の国』は、そのタイトルから思い浮かぶような、“秀長が大和を手に入れたサクセスストーリー”だけではありませんでした。「寺社の国」から「武家の国」……秀長・領民の使者・寺の使者という視点で描かれていましたね。

参考:
戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆 真山 知幸
図説 豊臣秀長――秀吉政権を支えた天下の柱石 河内将芳
興福寺公式HP

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

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