「天皇の母」を出し続けた蘇我一族は、なぜ古代王朝で「別格」になれたのか? (3/4ページ)

Japaaan

稲目の娘である堅塩媛と小姉君が、欽明天皇の妃となったのです。

のちに堅塩媛は用明天皇と推古天皇の母となり、小姉君は崇峻天皇の母となりました。ここで、蘇我氏は天皇を生んだ女性の一族として、王権の中枢に深く入り込んだわけです。

この関係を考えると、蘇我氏がなぜ特別な地位を得たのかも見えてきます。

継体天皇から8世紀初頭の光明皇后まで、天皇の母となった女性には、継体天皇の皇女や蘇我氏一門の女性が多く関わっていました。

さらに面白い事実があります。推古天皇の時代に定められた冠位十二階に蘇我氏は含まれていません。

つまり、蘇我氏は通常の豪族と同じ序列に置かれなかったのです。このことからも、蘇我一族は天皇に近い別格の存在だったと解釈できます。

土佐光芳『推古天皇像』(Wikipediaより)

とはいえ、これは歴史学上の確定した事実ではありません。王権と外戚の関係を説明するための一つの見方として考えるべきでしょう。

蘇我馬子が歴史上の大物として登場できた背景には、すでにこうした基盤がありました。

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