日本初の女子帝大生・丹下梅子とは?片目の失明を乗り越え、40歳から科学の道を切り拓いたその生涯【前編】 (2/3ページ)
女性として初めての合格でした。このころには、化学は梅子にとって単なる勉強ではなく、自分が専門的に取り組む学問になっていました。
40歳で帝国大学へ1913(大正2)年、東北帝国大学が、女性の入学を認めました。 入学したのは、黒田チカ、丹下梅子、牧田らくの3人。日本の帝国大学に女性が入学するのは初めてのことでした。
現在なら、女性が大学で学ぶことは珍しくありません。しかし当時は、女性が帝国大学で学ぶこと自体が前例のない出来事でした。大学側には、文部省から女性の入学を認めることについて確認する文書まで送られています。当時の新聞でも大きく報じられました。
そして、この3人の中で最も年長だったのが梅子です。40歳でした。
梅子は40歳になってから突然、科学を学び始めたわけではありません。すでに教師として働き、日本女子大学校で学び、大学卒業後には研究助手を務め、化学の教員資格も取得していました。
つまり、東北帝国大学への進学は、それまでの人生を捨てて新しい道へ飛び込んだというより、それまで積み重ねてきた学問をさらに深めるための進学だったのです。
東北帝国大学では化学を専攻し、有機化学者の真島利行のもとで学びました。大学を卒業した後も研究を続け、大学院へ進みます。当時の日本では、女性が科学を専門的に研究すること自体が珍しいことでした。
そのうえ、40歳という年齢で帝国大学へ入り、さらに大学院まで進むという梅子の歩みは、かなり異例のものです。
48歳、海を渡ってアメリカへただし、「異例」という言葉だけで片づけてしまうのも適切ではないでしょう。梅子は、何か特別な近道を歩いたわけではありません。教師として働き、学び直し、研究助手として経験を積み、その先に帝国大学への進学がありました。そして梅子は、この先さらに大きな決断をします。48歳で、アメリカへ渡るのです。
40歳で帝国大学へ入った女性が、その8年後には日本を離れ、海外の大学で研究を始める。丹下梅子の人生は、ここからさらに大きく広がっていきます。