【豊臣兄弟!】妹に続き母・なかまで徳川の人質に…秀吉に最大の打撃を与えた大政所・史実の哀しき最期 (5/10ページ)

Japaaan

けれども、夫が亡くなった後に秀吉は母を引き取り、長浜城主になると、母と寧々(北政所)と一緒に暮らし、秀吉は終生、母を身近に置いて大事にしたと伝わります。

また、寧々との嫁姑関係は「実の親子のように親密」だったとも。

天正10年(1582)本能寺の変後、長浜城が明智方に攻められた際、大政所とねねは一緒に伊吹山麓の大吉寺へ避難。この行動は、二人の信頼関係の深さを示しているようです。

大坂城築城後、なかは大坂へ移り、天正13年(1585)に秀吉が関白になると、破格の従一位に叙され「大政所」の号を与えられました。

以後も秀吉の近くで生活した大政所。母が病気がちになると秀吉は全国の寺社に大規模な祈祷を命じるほど心配します。

たとえば、京都の『伏見稲荷の楼門』は、秀吉が母の病気平癒を祈願し平癒したお礼に建てられたものだそうです。

その折の「どうか母の命を三年、もし無理なら二年、それも叶わなければせめて三十日でもいいから存えて下さい。成就したら一万石を奉納します」という願文が当社に残されています。(「文化庁」伏見稲荷大社VR)

これらの事実は、秀吉が母を精神的な支えとしていたことを裏付けていると思います。

強力な交渉の切り札「母を差し出す」

史実でもなかは、精神的に息子を支えただけではなく、政治の矢面に立つこともありました。

一番有名なのは、家康臣従のための人質的役割を果たしたことでしょう。

天正14年(1586年)、あさひを嫁がせた後も家康が上洛を渋ったため、秀吉は母・大政所を「朝日姫の見舞い」を名目に岡崎へ送りました。事実上の人質で、家康の安全を保証する担保でした。

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