【豊臣兄弟!】妹に続き母・なかまで徳川の人質に…秀吉に最大の打撃を与えた大政所・史実の哀しき最期 (6/10ページ)
このとき、大政所がどう受けとめたかを記した手紙などの記録は残っていないようです。
けれども、この頃は70歳を過ぎていました。事情は理解していたと思えます。
家康が従わない状況の中、「あさひの見舞い」と称して家康の城に出向かされるのですから、自身が「人質」であることは察していたのではないでしょうか。(もちろん、44歳という年齢で嫁いだ娘が心配で、顔を見たかったという思いも。)
血縁が極端に少ない秀吉には「駒」として差し出せる人は、妹を差し出した以上は母しかいませんでした。
かなり強力な交渉の切り札とはなったようですが……。
秀吉のために、徳川家康に人質として岡崎城に出向いた母・なか。(NHK「豊臣兄弟!」公式SAITO )
大政所を焼き殺すつもり!?だった逸話岡崎城代の本多重次は、家康上洛の人質として岡崎に来た大政所の宿所周辺に、薪を積み「家康に異変があれば火をつける」と備えていた……という逸話があります。
後にそれを知った秀吉は激怒、重次の蟄居につながったとされています。
ただ、この話は『寛政重修諸家譜』(幕府編纂、文化9年完成)など後世の史料に基づくもので同世代に記録ではなく、一次史料による裏付けは乏しいようです。