遊女55人虐殺事件の闇・おいらん淵と黒川金山:後編【ニッポン隠れ里奇譚】 (2/2ページ)
もう一つの鉱山街跡は「黒川千軒」の北東側の谷にあり、「女郎ゴー」と称された。"おいらん淵"の哀しい伝説の主人公にもなった遊女たちがいた街と言われているが、鉱山道具が多数出土して、坑道にも近いことから、基本的には鉱夫の暮らす集落だったと思われる。
実は「黒川千軒」には、武田氏が滅亡し、江戸幕府の時代になった後も、小規模ではあるが、人が住んで、採掘を続けていたという。
さらに時代は下って、明治39(1906)年になって「黒川金山株式会社」が設立され、試掘を行った。当時は日清、日露の戦争の後で、日本は経済的にも苦しく、新たな産業を興さなくてはならなかった。鉱物資源の開発に余念のない日本にあって、黒川金山の再興がはかられたとしても不思議はなかった。しかし、残念ながらほとんど成果はなかったという。
太平洋戦争の末期には、日本軍が黒川鉱山の最上部に近代的な坑道を掘って、なにか採掘しようとしたという。物資に不足した日本は、黒川金山にすがらなくてはいけなくなったのか、それとも何か秘密の実験でも鉱山内でしていたのだろうか。今もその時の鉱山開発の跡が、黒川金山最上部に残っている。
さて、はたして黒川金山にまつわる人間たちが刻んだ爪痕は、今や全くなくなってしまったのだろうか。黒川金山は、もはや歴史や伝承を通してしか、ふりかえれない夢想の存在となってしまったのだろうか。
いや、それは違う。黒川金山の名残りをとどめる村や人は、今も彼の地に存在している。
黒川金山全盛期の昔、高度な鉱山技術に熟達した人たちのことを「山師」と呼んだ。
黒川金山閉山後に、山師たちの多くが、佐渡や秩父にわたって、その地での鉱山開発の祖となった。
ところが、一方で山師たちの少なからずが、黒川金山の北東側の街道近くに集落を開発して移り住んだのだ。
「高橋」と「一之瀬」の集落である。
2000年の時点での「高橋」の集落は、すでに激しい過疎化が進んでおり、数えるほどの家しか残っていなかった。しかし、おそらく「寺屋敷」と呼ばれた鉱山街あたりから移してきたと思われる「鶏冠権現社」の社は健在だった。鳥居から山道をしばらく登ると、神社の社が静かに建っていた。
「高橋」に比べると、「一之瀬」の集落の方が、ずっと規模が大きかった。僕が訪ねたときは、小中学校や旅館も認められた。登山基地として、この地を訪れる人も少なくないらしい。「一之瀬」にも黒川金山から移されたと思われる「黒川金鶏寺」が健在だった。
"おいらん淵"の伝承については、不明な点が多いのであるが、黒川金山は確かにかつてかなりの規模で存在していた。そして、その係累は、確かに今も麓の集落と、そこに暮らす人たちの中に残り続けていたのである。
Written Photo by 石川清