異才の文芸漫画家・武富健治『惨殺半島赤目村』インタビュー【前編】

デイリーニュースオンライン

『鈴木先生』『惨殺半島赤目村』の著者、武富健治氏

 中学校を舞台に、2年A組のクラス担任である鈴木先生が、生徒、時にはそれを取り巻く教師や親、自分自身の問題に取り組んでいく作品『鈴木先生』。

 2011年にはテレビドラマ化され、2013年には劇場映画化を果たす大ヒット作品となったが、作者の武富健治氏が次に描いたのは瀬戸内海の田舎村を舞台としたサスペンス作品『惨殺半島赤目村』であった。教育現場から連続殺人へと主題を移した、その心境について尋ねてみた。

『鈴木先生』と線対称の『赤目村』

――多くの人から同じ質問を受けたと思いますが、『鈴木先生』と『赤目村』では作品の雰囲気も大分違いますよね。『鈴木先生』も単純なハッピーエンドばかりではないけれど、どこか楽観的な空気がありました。けれど、『赤目村』はとかく陰惨で怪奇趣味が溢れてる。横溝正史(『八つ墓村』『犬神家の一族』など)のような「田舎の不気味さ、恐ろしさ」が描かれていますが、『鈴木先生』から『赤目村』への、このテーマの変遷にはどのような背景があったのでしょうか?

武富 まず、すごく表面的なことを言うと、もっと魅力的な背景が書きたかったんですね(笑) ほら、『鈴木先生』って教室とかばっかりじゃないですか。せっかくアシスタントにも「廃屋を描くのが巧い」とか色んな才能が揃ってきてたので、活かしたいなって。

――鈴木先生では屋外に出ても、せいぜい公園とかでしたもんね。

武富 まあ、それは本当に表面的なことなんですけど、テーマ的なことを言うと、『鈴木先生』とは線対称のものを書きたいという思いがありました。教育モノからサスペンスと移ったわけですけど、そういう意味では二作品に関係はあるんですよ。『鈴木先生』では最初に担当さんとの取り決めで、ぐだぐだ、ずるずるなバッドエンド路線はやめようっていう約束があったんです。紆余曲折あっても一つ一つのエピソードはハッピーエンドじゃないですか。……で、それの鬱憤が溜まっていたというか。ほら、『赤目村』は……。

――ぐちゃぐちゃのバッドエンドですよね(笑) それで、線対称、というのは?

武富 『鈴木先生』だと、主人公として鈴木先生という有能なキャラクターがいますよね。それで、周りではキャラクターたちが未熟さとかもあってケンカとか色んな問題を起こすんですけど、鈴木先生の存在もあって、ギリギリのところで登場人物たちは改心したり気付いたり、良い選択肢を選んでました。でも、赤目村には鈴木先生がいないんですよ。

"ふつう"の人たちが世の中を不幸にする

武富 これは『鈴木先生』の中でも描いてることなんですけど、世の中って悪い人同士でどんどん不幸になっていくんじゃなくて、“ふつう”くらいなんです。“ふつう”くらいの人同士の間で諍いが起こっていくんです。“ふつう”同士で、鈴木先生がいない状況。それを今回は描いたわけです。

――“ふつう”の人にもそれぞれ個人差がありますからね。特別に他者への悪意がなくても、“ふつう”程度に他人への許容度が低いだけで、他の“ふつう”の人の違いを許容できなくなっていく。……という感じでしょうか。確かに、赤目村のキャラクターには飛び抜けた悪人という感じの人は一部を除いていませんよね。なのに、あの村の雰囲気がすごく怖い。横溝正史の描くクソ田舎のような底知れぬ不気味さを湛えている。村を訪れた主人公(医者)に対し反感を持つ青年団の男たちも、一応話せば分かるし、礼儀は最低限心得ている。その「話せばちゃんと分かる」感じが、なぜか怖さを助長している。

武富 “ふつう”なんですよね。“ふつう”レベルの人たちが特に現状改善の努力もなく日々を積み重ねていった結果がああなってしまう。

――「話せばちゃんと分かる」。そんな“ふつう”の人たちだからこそ、僕たちのリアリティラインに近くて怖いのかもしれませんね。ちゃんと話せば通じる同じ人間なのに、村としてはあんなとんでもないことをしている。何考えてるのかよく分かんない(笑)

武富 その辺は『鈴木先生』と共通しているところで、『赤目村』にも分かりやすい極端な悪人はいないんですよ。“ふつう”の人たちの話なんです。鈴木先生のハッピーエンドに向かう方向も、僕の中ではリアリティに欠ける夢想的な「良い方向」ってわけじゃなかったんです。ああいう良い方向に事が運ぶことも、可能性としてはちゃんとあると思ってます。でも、実際にはそんな巧く行きませんよね。現実世界ではみんなが手を抜いて生きてるから巧くいかないんだ、って僕は捉えてるんですけど(笑) それをそのまま、現実の等身大のまま、人が動いていったらどうなるのか、というのが『赤目村』なんです。

――なるほど、そこが「線対称」なんですね。

誠意を受けても癒やされない人たち

――しかし、“ふつう”の人たち、と仰いますが、この事件の真犯人などは、かなり邪悪の権化と言いますか、割り切った悪として受け取れる造形だったと思います。辛い過去に縛られてしまい、大量殺戮に走るキャラですね。愛情や優しさは周りから相応に受けていたけど心の傷は癒やされなかった、という描写でしたが、武富先生的にはあれもまだ、“ふつう”の人のありうる可能性の一つとお考えですか?

武富 そうですねー……。あれは自分がモデルになってるところもあるんですけど(笑) やっぱり若い頃って、色々、こう、あるじゃないですか……。そういう若い頃のアレコレって巧く解消されてないなっていうのはあるんですよ。トラウマになってるわけじゃないし、今も表に出したりせず巧くやってますけど、何かのキッカケで、時々そういう気持ちが戻ってきちゃうっていうか。

――誰でもそういうのはありますよね。心の奥底に燻る破壊衝動と言いますか。ということは、犯人のあの破壊的な性格に関しても、僕たち通常人から隔絶した邪悪の権化というわけではなく、場合によっては誰にでもあり得る可能性の一つである、と。

武富 僕のような人間にはあり得るんじゃないですかね(笑) 嫌なことがあっても、その後、イイコトとか色々あったら段々癒やされていくじゃないですか。でも、犯人の場合は根が深かったんですね。“ふつう”の範囲でちゃんと優しくされて大事にされても、過去の傷が癒やされなかった。

――『鈴木先生』の演劇編でも犯人にそのような描写がありましたよね。犯行に及ぶ前に、相手から理解されて謝罪を受けて、それを犯人も表面上は礼節をもって受け入れるんだけど、一人になってから「そんなもんで俺の心が洗われるわけねーだろ!」って。常識の範囲でしっかり誠意を見せてもダメなもんはダメだっていう。そういう人間観が武富先生にはあるということですかね?

武富 そうですね。自分自身を見てもそうですし、周りの人を見てもそういうところはあると思います。その点でも『鈴木先生』と通じているテーマと言えるのかもしれませんね。

(後編に続く)

著者プロフィール

作家

架神恭介

広島県出身。早稲田大学第一文学部卒業。『戦闘破壊学園ダンゲロス』で第3回講談社BOX新人賞を受賞し、小説家デビュー。漫画原作や動画制作、パンクロックなど多岐に活動。近著に『仁義なきキリスト教史』(筑摩書房)

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