田中角栄「竹下登への執念の復讐劇」と「赤報隊事件」の偶然(後編)

デイリーニュースオンライン

1988年、首相就任後に初訪米した竹下登元首相
1988年、首相就任後に初訪米した竹下登元首相

 世界中を震撼させた仏週刊紙「シェルリー・エブド」本社へのテロ事件で、およそ30年前の「赤報隊事件」を思い出した人も少なくないだろう。この新聞社を狙ったテロ事件では朝日新聞の2人の記者が死亡し、続いて当時の首相、韓国民団、リクルート元会長を狙った発砲・放火事件へと発展していった。前編の記事では実行犯として名前があがった思想右翼、宗教団体、警察について述べた。しかし、いずれも動機や具体的な証拠が見当たらず、捜査線上から消えていった。残ったのは暴力団と政治家の2つだった。

28年前に日本で起こった言論テロ「赤報隊事件」実行犯の正体」(前編)

リクルート事件も佐川急便事件も角栄が仕掛けた?

 赤報隊は、1987年から1990年5月の3年の間に主な事件は集約されている。しかも、1990年5月の民団襲撃後は、活動はおろか犯行声明文すら出さず、忽然と姿を消した(のちに模倣犯による犯行の可能性が高いとされた事件はあったが)。それは、あたかも“3年間の期限付”の活動であったかのような印象を受ける。そして、偶然にも「ある政治家」と赤報隊の活動期間がまるで歩調を合わせているかのようにピッタリ重なるのだ。ある政治家とは、誰か——1987年7月、「経世会(注1)」を旗揚げし、同年11月、「中曽根裁定」により第74代内閣総理大臣に就任し、1989年6月に退陣した竹下登氏である。赤報隊の活動は、竹下氏の経世会旗揚げ、総理就任・退陣までの期間とほぼ一致している。

 当時の政局を駆け足で整理しておく。竹下氏が自らの野望を露にするのは、1985年にアメリカで「プラザ合意(注2)」が締結された頃だ。1985年当時、首相は中曽根康弘氏。竹下氏は中曽根内閣の実権を握るべく、田中角栄氏から送り込まれた大蔵大臣だった。当時、田中氏が「ロッキード事件」で失脚したものの、復権を狙う田中派と旧田中派で、田中氏を引退させて「竹下政権」樹立を狙う、竹下・金丸進両氏が水面下で激しい覇権争いを繰り広げていた。しかし、田中氏は「日本の首領は自分以外にいない」とばかりに、竹下氏への政権譲渡を頑として認めなかった。当然、田中氏の胸中には「ロッキード事件」の汚名を挽回したいという強い思いがあった。

 そして、この覇権争いに割って入ったのが中曽根氏とアメリカだった。プラザ合意で蔵相としてアメリカを訪れた竹下氏は、中曽根氏を介してレーガン大統領から、“アメリカの庇護下に置かれる”ことを条件に、政権の後ろ盾の約束を取りつけたといわれている(2000年の竹下氏の地元密葬には、レーガン元大統領が極秘裏に訪れていたともいわれている)。アメリカの後ろ盾を得て、竹下氏は「経世会」を旗揚げした。

 当初は「たかが勉強会」とたかをくくっていた田中氏も、竹下氏の背後にある中曽根氏とアメリカの存在に気づくと、徹底的に竹下氏を潰しにかかった。

「田中の怒りはすさまじかった。『自分を裏切った竹下と中曽根を殺さない限り、自分も死ねない』とこぼしていた」(田中に近かった政界関係者)

 酒量も増え続け、「竹下の造反」が最大の要因とされる脳梗塞で倒れた後も田中氏の命を支え続けていたもの——それは竹下氏への“怨念”だけだったいわれている。田中氏は竹下潰しに、もち得る権力のすべてを注いだ。マスコミを利用し、リクルート事件で竹下氏を総理退陣に追い込み、さらに「東京佐川急便事件(注3)」では竹下氏の盟友・金丸氏をも政界から引退させることに成功した――真相は語られることがなかったが、少なくとも永田町ではそう解釈されている。

 当時、田中角栄の“懐刀”と称された後藤田正晴・元副総理に近かった関係者は、江副浩正がリクルート事件で逮捕される前年にこう警告されたという。

「(リクルートに)検察を入れるから近づくな」

 田中派の力がリクルート事件の背後で動いていたという貴重な証言だろう。当時、リクルートの江副会長は、竹下氏と中曽根氏のスポンサーであり、田中氏が失脚後、政界の新しい“黒幕”となりつつあった。「皇民党事件(注4)」に絡む“褒め殺し”の中止も「竹下の田中への謝罪」が条件だった。ここでも田中派の力が動いた痕跡が見える……そして、こうした政局の流れと赤報隊の活動時期との間には、あたかも「表裏一体」の関係性が見える。はたして、これは単なる偶然なのだろうか……。

実行犯と名乗った人物は白骨遺体で発見された

 2006年10月19日、元公安調査庁の菅沼光弘氏(1995年退官)が、外国特派員協会で講演を行なった。菅沼の講演の要諦は次の証言に集約されている。

「やくざの活動と、日本の表の活動である政治、経済、外交は、複雑な絡まり合いのなかで運営されているのが現状。日本の本当の姿を知るためには、裏社会の問題について十分な知識がないと正確な分析はできない」

 さらに、菅沼氏は皇民党事件について、事件の背後に“ある組織”の存在があったことについて言及している。

 ある組織——この系譜を辿っていくと、朧げながらも赤報隊の正体が見えてくる。それは右翼の大物、財界の大物関係者、そして裏社会の面々が連なる「禁断の系譜」である。

 筆者は疑問に思っていたことがある。朝日新聞がなぜ襲撃対象になったのか。「シェルリー・エブド」本社へのテロ事件のような明確な構図が、実は赤報隊事件にはないのだ。政局の流れと赤報隊の動きとの関係性からすると、朝日新聞という対象はひときわ異彩を放つ。朝日は実は“禁断の系譜”を追求しようとしていたのではないか。

 菅沼氏が指摘する組織というイデオロギーを超越した繋がりが、ここ日本には厳然と存在する。

「残念だが……捕まえられない相手もいる……」(前出元公安関係者)

 2009年、『週刊新潮』を舞台として起こった、「赤報隊事件の実行犯と名乗る人物」の告白手記がのちに「世紀の誤報」となった経緯をみるにつけ、赤報隊事件は、やはりアンタッチャブルであることを痛感せざるを得なかった。誤報騒動から1年以上が経過した2010年5月、手記を寄せた自称実行犯の男(当時66歳)は、北海道富良野市で白骨遺体となって発見されている。

 世紀の誤報騒動、そして、自称実行犯の怪死をもって、赤報隊事件の真相は、永遠に封印されたのではないかと筆者は考えている。赤報隊事件の“真の実行犯”は捕まらない……いや、逮捕できないのだ。

【用語解説】

注1:「経世会」=1985年2月、田中角栄氏に反旗を翻した竹下登、金丸信両氏らを中心に結成され勉強会。1987年6月3日、竹下が会長に就任し、正式に田中派から独立した派閥の会に発展。しかし、この竹下氏の行動は田中氏の怒りを買うこととなった。

注2:「プラザ合意」=1985年9月22日、アメリカ・ニューヨークの「プラザホテル」で行われた先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議(=通称G5)で発表された、為替レートに関する合意。この合意を受け日本では急速な円高が進行し、低金利政策が実施される。この政策が不動産・株式投機を結果的に加速させ、後のバブル景気をもたらした。

注3:「東京佐川急便事件」=東京佐川急便の渡辺広康元社長らが暴力団の系列企業などに融資や債務保証をして、東京佐川に約400億円の損害を与え、特別背任罪などに問われた巨額背任事件。さらに自民党の金丸信・元副総裁などへ東京佐川から5億円のヤミ献金が渡っていたことが発覚し、金丸氏は議員辞職へと追い込まれた。

注4:「皇民党事件」=1987年、「ポスト中曽根」を巡って安倍晋太郎氏、宮沢喜一氏と争っていた竹下登氏が、右翼団体「日本皇民党」から執拗に「日本一金儲けのうまい竹下氏を総理に」と“ほめ殺し”受けた事件。このほめ殺し中止の条件として出されたのが、「田中角栄氏への謝罪」だった。同年10月6日、竹下氏は謝罪のため目白の田中邸を訪れるも、門前払いに遭う。しかし、以降竹下氏に対するほめ殺し行為はピタリと止んだ。

(取材・文/林圭助)

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