高校野球100周年記念「甲子園名将列伝」第1回 蔦文也監督(徳島県立池田高校) (2/5ページ)
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蔦が父・新吉、母・玉枝の間に生まれたのは、1923年(大正12年)8月28日。関東大震災が起きる4日前のことである。徳島商の教員だった新吉は、酒に目がなく、小さい文也を連れ回し、カフェに入り浸った。後に文也が徳島商に進学すると、クラスメートから、「やーい、鯖の子、鯖の子」と揶揄された。いつも二日酔いで教壇に立った新吉が、死んだ鯖のような目をしていたからに他ならない。
蔦自身の高校野球(当時は中等野球)は、ほろ苦いものだった。
39年秋、センバツ大会選考を兼ねた四国大会決勝の高松商戦で、1点リードし、9回裏二死までこぎ着けたが、ファーストを守っていた蔦が送球を落球。同点に追いつかれ、延長戦で敗れた。慶応大学の受験に失敗し、同志社大学に進学したが、太平洋戦争が勃発。茨城県の土浦海軍航空隊で特攻訓練を受けると、生来の弱気の虫がうずいた。
「わしは死ぬ運命なのか」
恐怖に襲われた蔦は、国産の安ウイスキー「アルプス」をガブ飲みし、酩酊。桜の木を引っこ抜き、上官にボコボコにされた。だが、天は蔦を見捨てなかった。奈良県の大和海軍航空隊で「神風特別攻撃隊千早隊」の一員として、突撃命令を待っているとき、終戦を迎えた。
大学卒業後、社会人野球「全徳島」のエースになり、ベーブ・ルース杯で優勝。東急フライヤーズ(現・日本ハム)から誘われ、プロ入りするが、実働はたった1年。0勝1敗、防御率11.70という成績しか残っていない。
「わしは生まれ故郷の池田に帰り、監督をしたい」
蔦は一念発起し、教員採用試験に合格。1952年から、池田高校の指揮を執ることになるのである。
「雌伏の時代」から「雄飛の時代」へ!
蔦の40年にも及ぶ監督人生は、二つの時代に分けることができる。前半の20年は甲子園を目前にし、負け続けた「雌伏の時代」。後半の20年は甲子園の常連校になり、勝ち続けた「雄飛の時代」である。
蔦は監督就任3年目の55年秋、早くも徳島県大会の決勝に進出。蔦の母校・徳島商と戦い、0対11で大敗すると、時の校長・真鍋信義からケンカを売られた。