高校野球100周年記念「甲子園名将列伝」第1回 蔦文也監督(徳島県立池田高校) (4/5ページ)

日刊大衆

あそこに打ち込むことじゃ"とレフトスタンドを指差し、"かまわんか"と聞くんで、"やったらええ"と答えると、バットを一閃。レフトスタンド中段へ放り込みよった」

蔦は、20年間の万感の思いを込めてバットを振ったのである。
"さわやか野球"は"豪打"に変わった

池田の名前が全国区になるのは、74年春。11人の部員でセンバツ大会出場を決め、NHKが「谷間の球児」という番組を制作。"さわやかイレブン"と呼ばれるようになるのである。初戦の函館有斗(北海道)戦は、開会式直後の第1試合。エースの山本智久が振り返る。
「監督とナインがあがっているのを見て、投球練習の第1球を故意にバックネットへぶつけたんです」

蔦の一番弟子だけあって、師匠の気持ちをよく理解していた。部員11人(出場校中最少)の池田は決勝に進出し、部員59人(同最多)の報徳学園に挑んだが、1対3で敗れた。これが木のバットを使った最後の試合になった。

それから5年後の夏、今度は深紅の大優勝旗を手にするチャンスに恵まれる。
ただし決勝の相手は尾藤公監督率いる箕島。池田は8回表まで3対2とリードしていたが、その裏、箕島の巧みなスクイズなどで2点を失い、3対4で逆転負け。箕島戦でマスクを被ったのは、岡田康志(現・池田高監督)である。

「蔦監督は細かい野球では尾藤野球に勝てないと思ったんでしょう。スクイズではなく、外野フライで1点を取る野球は、この試合が分岐点になりました」

2年後、蔦から全権委任された高橋由彦が野球部副部長に就任すると、トレーニング革命に着手する。畠山が2年、水野が1年のときである。高橋が内容を明かす。
「タイヤ引き25mを5セット。ハードル跳び30回を5セット。腕立て伏せ15回を5セット。背筋25回を4セット。バーベルなど、器具を使ったトレーニングが5セット。そして、仕上げがグラウンドの向こうに聳える西山(709m)登りでした。筋トレばかり脚光を浴びましたが、実際はサーキットトレーニング。パワー野球ではなく、科学野球でした」
おかげで水野の背筋力は130㎏から185㎏になり、飛距離が大幅にアップするのである。

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