高校野球100周年記念「甲子園名将列伝」第1回 蔦文也監督(徳島県立池田高校) (5/5ページ)

日刊大衆



高校野球は金属バットの時代を迎え、池田と蔦を待ち望んだのである。
82年夏の甲子園大会は、池田のため、蔦のための大会だった。
準々決勝の早稲田実業(東京)戦は、持ち前の強力打線が爆発し、先発の荒木大輔(後にヤクルトほか)とリリーフの石井丈裕(後に西武ほか)を火だるまにした。

1回裏、3番・江上光治(右翼手)が荒木から2ラン。6回裏、水野(左翼手)が荒木から2ラン。さらに、水野は8回裏にも、石井から満塁ホームラン。池田打線は20安打を浴びせ、14対2で大勝。決勝はバントと機動力野球で久しく高校野球のお手本と言われた広島商を、力で12対2とねじ伏せた。

打って打って打ちまくる野球は、最初で最後の高校野球革命だったと言っていい。初の全国優勝を成し遂げた夜、蔦は生涯最高の美酒に酔いしれた。
「わしは日本一の監督やない! 日本一の酒飲み監督じゃ!」
酒も飲めない勇退後の孤独な人生…

数々の名勝負を演じた蔦だが、長年の暴飲がたたり、糖尿病を患い、右目がかすみ、両足がしびれ、ノックができなくなり、1992年に引退を表明した。
晩年の蔦は孤独だった。自宅療養中、記者が訪ねてきても面会を拒んだ。
「わしの人生は終わったんじゃ」

野球ができないばかりか、酒も医者から止められ、生きる気力を失った。愛弟子の水野雄仁が訪ねると、ノンアルコールビールの「バービカン」を飲んでいたという。

「"ブン"の痩せた顔を見て、本当に可哀相でした」
蔦が肺ガンで亡くなるのは、それから間もない2001年4月28日だった。
棺には、監督時代に着用した池田高校のユニフォームとノックバット、そして、甲子園の土とツタの葉が入れられた。蔦を乗せた車は池田高校に向かった。"やまびこ打線"を率い、甲子園で一世を風靡した蔦の最期らしく、山あいのグラウンドに大きなクラクションが響き渡った。
(文中=敬称略)
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