内田樹『日本の反知性主義』が酷評されまくる理由
やまもといちろうです。それなりに本を読むほうで、最近は世界史に改めて手を出してから移動中の読書量がハンパなく増えた割に、日々の生活での実益があんまりなくなってしまいました。
ところで、フランス思想で一定方面に著名な京都精華大学の客員教授・内田樹せんせが先日上梓された『日本の反知性主義』が、あまりにも酷いという言説がありまして。
反知性主義3 Part 1: 内田編『日本の反知性主義』は編者のオレ様節が痛々しく浮いた、よじれた本。
まずは山形浩生せんせの書評に、東京大学准教授の池内恵せんせが呼応する形で罵倒芸が繰り広げられており、これはなんだと思うわけです。
池内さんといえば、わが国のアラブ研究家の中でも気鋭の論客の一人であり、先日のISIL(というかイスラム国というか)の問題においても、非常に重要な示唆となる内容を踏まえた知識を披露しておられまして、何冊か本を読む中では信頼できる知識人の一人なのではないかなと思います。山形さんも在野の中では翻訳からネット論考まで幅広く活躍してこられた一人であり、最近ではピケティ本の翻訳や関連書籍なども担当しておられるという点で、どちらも日本の第一線級の人材です。
かたや、内田樹せんせも国内の論壇方面では様々な分野に言及して多くの日本人に刺激を与えてきた人物の一人で、信奉者も数多く、一定の影響力を持っておられる知識人とされています。全部ではないけどそれなりに内田せんせの文章を読んできた私としても、好き嫌いはともかく、抑えておくという感じのポジションであることは間違いありません。
以前から、池内さんは内田さんの議論を理路整然と馬鹿にしているので興味を持って見てきたのですが、今回はもっと具体的に、本質的なことが指摘されています。以前の論考は、思想家内田樹の「思想」は実は思想でもなんでもない思いつきに過ぎず、その話を聞きにいってありがたがって記事に掲載しているメディアも馬鹿なんじゃねという内容だったのが、今回の『日本の反知性主義』ではさらに踏み込んで論難している姿が印象的です。
個人的には、この内田せんせと思想家(レーニン研究)で京都精華大学の白井聡さんの共著である『日本戦後史論』があまりにも微妙だったため、この『日本の反知性主義』は見送っていたんですが、ここまで酷評されているということは何か面白いものがあるに違いないということで、買ってみたんですよ。
根拠に基づいた議論が分かっていない!?
拝読して感じたことは、まあ山形浩生さんが言い尽くしていたので繰り返しここに書くのも気が引けるのですが、私としては内田せんせは「エビデンス・ベースド」、つまりデータなどの根拠に基づいた議論についてはあまりきちん分かっていないんだろうなあというところがすべてだと思います。
簡単に言えば、内田せんせは現代のデータも用いた議論についていけてない。
ある意味で、内田せんせというのは鋭利な知性であり直感で物事を感じ、そこから論じ抜いて人々に新たな思考の地平線を見せる、というのが「芸」であります。これはこれで、それ一本でやってきたようにも見える内田せんせの凄さであり、伝統芸能なんですけれども、さすがにこのご時勢、リベラルとは何かとか、貧困や高齢化社会という先の見えない問題に取り組むべき時期において、感覚や感情に基づいた捏ね繰り回した論説は、説得力を失ってきていると言うことなんだと思うんですよ。
「反知性主義」という言葉の定義や、すでに空洞化した概念だというレトリックはもちろん考えるにしても、現場で政策を論じたり、具体的な問題について取り組んでいる一線級の人たちにとっては、内田せんせの論ずるような「べき論」「である論」というのはノイズが多すぎて、自分の立場や仕事に置き換えたとき役に立たないか、ピンとこなくなっているのだろうと感じるわけです。
大上段に言うならば、池内せんせがFACEBOOKに文字通り書かれていたような「なんでまともに議論もできない『大学教授』が量産されたかというと」というパラグラフがすべてを表しているように、内田樹的なるものはおおよそ日本社会が右肩上がりで、豊かで問題を時間が解決してくれた時代の産物であることが良く理解できます。内田樹的なるものが無用かどうかは見る者読む者が判断すればよいとしても、少なくとも社会時評やその底流にある思想を解き明かそうというところです。
一定層にはジャストフィットも……
しかしながら、内田せんせが著書で「数学における『予想』の存在が示すのは、平たくいえば、人間には『まだわからないはずのことが先駆的にわかる』能力が備わっているということである」と記したとき、読者は「ああ、この内田さんという人は数学がまったく分からないのに数学を論じるタイプの馬鹿なんだな」と思ってしまうだろうということです。
上記の池内せんせの内田樹批判も、おおよそ「知らない分野を分かったフリして論ずるな内田」成分と「論じることもまともにできない内田を崇め奉る大学もメディアも読者もいい加減にしろ」成分とが混ざっているように思うわけです。おそらくは、その根底には内田せんせにおいては拭い去れない時代感(たいした研究者でなくとも大学が新設されポストが増えていったのでそれらしい肩書きをもらえていた右肩上がりの時代)から、いまの日本人や日本社会が抱え背負う苦労を見下した論難の仕方が、一定のマゾい読者や反権力的思考の持ち主にはジャストフィットして産業として成り立っている、ということなんじゃないかと。
内田せんせから学ぶべきことは、間違いなく「ああ、あれだけ俊英な視点を持っていた人でも、時代に取り残されるとこんな感じになっちゃうんだな。私もそうならないようにまじめに日々勉強しよう」ということなんじゃないかと思いました。
著者プロフィール
ブロガー/個人投資家
やまもといちろう
慶應義塾大学卒業。会社経営の傍ら、作家、ブロガーとしても活躍。著書に『ネット右翼の矛盾 憂国が招く「亡国」』(宝島社新書)など多数
公式サイト/やまもといちろうBLOG(ブログ)