円広志 パニック障害で苦悩生活。医師から「死なないと治らない」と言われた

学生の窓口

6日の「八方・陣内・方正の黄金列伝 」(読売テレビ)にゲスト出演した歌手の円広志。
パニック障害で、絶望な時期を過ごしていたことを明かした。

1978年にヤマハのポプコンでグランプリを受賞し、「夢想花」でデビューして大ヒット。
最初に入ってきた印税は600万円だった。
それ以降、曲を書いてもボツになり、ヒット曲に恵まれなかったが、印税で飲み歩き、お金はあるが精神的にはすさんだ生活をしており「一発屋」と言われた。

お金が底をついた頃、頼まれて作った森昌子の「越冬つばめ」が大ヒット。
その後、島田紳助に面白さを引き出されて人気があがり、レギュラー番組を10本以上抱えるほどになった。
当時は、ヤマハ所属のアーティストで、20万円の給料制。
「おかしいなあ」と思い、「2倍にしてもらえませんか?」と言ったらあっさりOKされて40万円にアップ。
1年ぐらいしてまた交渉したら倍になり、80万円になった。
「なんで簡単にあげてくれるの?」と思い、「歩合制にしてくださいと言ったら600万ぐらいになった。これはいかんと思って独立した」と、独立して個人事務所を立ち上げた。

それまでは、テレビは遊び場だったのが、独立したことでお金を稼ぐ手段になり、それが大きなプレッシャーとなった。
そして、「パニック障害という得体の知れない病気にかかってしまった」と告白。
「すべてのものが増幅される」と表現した円。
悲しみが1つあると5つぐらいに感じてしまい、夕方が怖くて4時ぐらいから毎晩泣くほど精神的不安定になった。

異変に気づいたのは、番組収録中。
ずっとスタジオが揺れているため、自分の体を揺らさないと真っ直ぐにならなかった。
カメラが寄ってきたときは我慢するが、自分が映っていないときは体を揺らしていた。
当時は「パニック障害」という言葉もなく、理解不能の症状で病院に駆け込んだが、「君の病気は死なないと治らないよ」と医師から言われて絶望。

しかし、「その通り。パニック障害は僕が持っている病気。僕そのものだから、死なないと治らないという病気」と認めた。
それでも医師に言われたときは理解できず、家で棚の中の物を全部割ってグチャグチャにした。
「死ぬなと思った。いや、もう死んだあとかも知れないと思った」と精神不安定な状態だった。

そして4ヶ月間休養したが、休むとよけいに不安になるが、ライブ活動は続けた。
本番直前までベッドに横になり、曲が始まると立ちあがり、いつ倒れてもいいように、数人のスタッフが舞台の前でスタンバイをしていた。

そして「結局それがボクを助けた。パニック障害は自分が自分で作っている病気。それを超えるときがある。ステージに出て歌っているうちに一生懸命になる。そしてそのパニック障害を超えてしまう。終わったら嘘みたいに治っている。でも次の日は絶望」と、それを何度か繰り返しているうちに希望が見えてきた。

今でも薬を服用し、トイレに行くのも怖いという円。
現在は、関西で朝の帯番組に出演。不安もあるが楽しいと言う。
しかし、この番組を最後にするそうだ。
「音楽活動は自分の意志がある限り死ぬまでやっていきたい。あとは体力だけ。今は楽しいですね」と最後にしめた。

愉快なトークの裏で病気と闘っていたのに、それを感じさせなかったのは、プロ根性の現れ。
治ったわけではないが、病気とうまく付き合い、今、人生を本当に楽しんでいるようだ。

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