【プロ野球】熱いハートで投げぬいた24年! ハマの番長・三浦大輔(DeNA)を振り返る!! (1/2ページ)
熱い男だった!
誰からも兄貴のように頼られる存在だった。そして、いつのころからか「番長」と呼ばれていた。
ハマの番長こと三浦大輔がマウンドから去ってゆく。
9月20日の引退会見では、ファンのことを聞かれ涙ぐんだ三浦。最後まで、熱いハートの直球勝負でファンを思いやった。
その反面、マウンドでは緩急を使った巧みな投球術と絶妙なコントロールで打者と向かい合う、緻密で繊細な投手でもあった。
三浦は大洋に入団以来、24年間ファンに愛され、ファンを愛した。そんな三浦の野球人生を阪神ファン目線から振り返ってみる。
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■ドラフトで指名しなかった阪神の痛手
1991年ドラフト6位で横浜大洋ホエールズから指名を受けた三浦は、「6位では大した選手ではない」と自らも語っているように、ドラフト前に注目を浴びることはなかった。
しかし、三浦を幼少期から注目し、その才能に気づいていたのが、阪神タイガースで活躍した岡田彰布だった。
三浦の実家が大阪・玉造で花屋を営んでいることもあり、同じく玉造で育った岡田は、三浦を幼少のころからかわいがっていたという。三浦にとって岡田は野球人として憧れの人であったに違いない。
1991年ドラフトの際、岡田は球団に三浦指名を提言していたとも聞く。しかし、その願いはかなわず、阪神が三浦を指名することはなかった。
ちなみにこの年は、イチローがオリックスに、金本知憲が広島に指名された年だった。
三浦といえば、後に“虎キラー”と呼ばれ、阪神相手に勝ち星を積み重ね、虎ファンにとっては天敵ともいえる存在であった。
ドラフトで指名を逃したことが、阪神にとっては後々大きな痛手となったことはいうまでもない。
■三浦の将来に少なからず影響を与えた岡田監督の退任劇
再び三浦が縦じまのユニフォームを着る可能性が高まったのが、2008年オフだった。三浦は横浜ベイスターズからFA宣言。阪神が獲得に名乗り出たのだ。
2008年当事、阪神の監督だったのが岡田監督。この年のシーズン序盤、阪神はペナントレースを独走していた。しかし夏以降、失速。代わって巨人が破竹の勢いで連勝を重ね、13.5ゲーム差を覆し、リーグ制覇を成し遂げる。
その責任を取る形で岡田監督は退任、この退任劇が三浦の決断に大きな影響を与えた。
幼少期からの憧れだった岡田監督を胴上げしたい。阪神への移籍の思いには、元々、そんなところにあったのかも知れない。
もちろん、FA宣言には横浜球団への強いメッセージが込められていたのも事実だろう。
「このままではいけない! 横浜を強くしたい!!」という思いが三浦を突き動かした。