【日本人が知らないニッポン】掛川城が豊臣政権の「アキレス腱」だった理由 (3/3ページ)
・秀吉は「家族」が少なかった
こうして見ると、掛川城は「豊臣滅亡の原因」をはっきりと炙り出しています。
極端な話、秀吉に男兄弟がもうひとりいたとして、そこからさらに秀吉の甥っ子が何人か誕生していたら歴史は変わっていたはずです。
豊臣政権は、常に「血縁者の少なさ」に悩まされていました。逆にそういうことがなければ、駿府・掛川・浜松の3拠点は親戚縁者に任せてしまう。秀吉が死んでも絶対に豊臣を裏切らない勢力を、今の静岡県に作らなければなりません。
日本の戦国史を研究する上で、東海道探索はまさに「避けて通れない道」と言えるでしょう。
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