【プロ野球】代打本塁打歴代1位・高井保弘(元阪急)ら「一芸」でファンを沸かせた名バイプレイヤーたち (2/2ページ)
■ピンクレディー「サウスポー」のモデル・永射保(西武ほか)
ピンク・レディーの名曲「サウスポー」のモデルになったと言われている左投手が永射保(元西武ほか)。1972年に広島へ入団するが、1勝も挙げることができず太平洋クラブへ移籍。クラウンライター時代の1977年には主に先発として9勝を挙げ、台頭する。
球団の親会社が西武に変わってからはリリーフに転向。左腕のサイドスローだった永射は、踏み出した右足が内側へインステップする変則的なフォームで各チームの左打者を苦しめさせた。特に1982年、1983年はワンポイントリリーフとして西武の連続日本一に大きく貢献。その後、大洋、ダイエーと移籍した球団でもその持ち味を発揮し、長く現役生活を続けた。
永射の登場以降、左のワンポイント投手が重宝されるようになり、現在ではリリーフ陣で不可欠な存在となっている。
■内野に佇む守備の職人・上田浩明(元西武)
西武一筋に生きた18年間のプロ野球生活において、通算打率.179で本塁打はゼロ。この数字だけを見ると、プロ野球選手として物足りなさを感じるかもしれない。
しかし、上田浩明は守備固めの選手としてチームに不可欠な選手だった。北陽高(現・関大北陽高)から1987年のドラフト2位で入団したが、当時の西武には石毛宏典をはじめ、清原和博、辻発彦、田邊徳雄と内野陣には絶対的なレギュラーがいたため、なかなか出場機会に恵まれなかった。そこで守備をとことん鍛え、自らの武器にすると、レギュラー陣がベテランの域に入りはじめた1994年に1軍定着。試合終盤、主にセカンド、サードの守備固めとして起用されるようになる。
そんな「守備のスペシャリスト」が、バットで魅せたのが2003年9月13日の日本ハム戦だ。6対6の同点で迎えた8回、途中出場していた上田にチャンスで打席が回ってきた。すると、相手投手・芝草宇宙からセンター前へ勝ち越し打を放つ。殊勲打を放った上田は、もちろんヒーローインタビューに呼ばれた。これがプロ入り最初で最後となるヒーローインタビューだった。
当時、西武のショートを守った松井稼頭央の派手なプレーとは対極の堅実な守備が上田の持ち味。9回にグラウンドへ立ち、内野に佇む姿はまさに「職人」そのものだった。
文=武山智史(たけやま・さとし)