理想を追い求めた『20世紀最高の自動車設計者』フェルディナンド・ポルシェの生涯 (2/5ページ)

イキなクルマで

事業規模の大きな会社でさらに自身の研究を進めようと考えたフェルディナンドは、1906年、後のダイムラー・ベンツにあたるアウストロ・ダイムラーに移籍。技術部長として迎えられた彼はスポーツカーの開発から飛行機エンジンの開発まで、多くのエンジンや自動車の設計に携わります。その数々の功績が認められ、1917年にウィーン工学大学から名誉博士号を授与。大学を卒業していないポルシェが博士と呼ばれるのはこれが理由です。

1923年ダイムラー・モトーレンの主任設計者となり、数々のレーシングカーを手がけて成功を収めたポルシェでしたが、意欲的だった大衆車の開発で第一次世界大戦後の不況により合併したベンツ陣営の経営者と対立。1928年にダイムラー・ベンツを去ることになります。

独立、理想の大衆車、そしてナチスphoto by Bundesarchiv, Bild 101I-256-1228-10 (CC 表示-継承 3.0)

1931年ドイツ・シュトゥットガルトで自動車の設計・コンサルタントを行うポルシェ事務所を開設。委託された自動車の設計を行いながら、自身の理想だった大衆車の設計を行っていましたが、そちらはスポンサーの資金不足などで思うように進みませんでした。そんな中登場するのがナチスのアドルフ・ヒトラーです。彼から国民車(ドイツ語でフォルクスワーゲン)の開発依頼を受けたことで、理想の大衆車をついに実現する機会を得たのです。この時に開発されたのがビートルの愛称で親しまれ、ポルシェの代表作とも言われるフォルクスワーゲン・タイプ1です。

以降ナチスは軍用車両や戦車の開発もポルシェに依頼するようになります。ナチス党の政治理念には批判的であったポルシェですが、ナチスをスポンサーとしてシュビムワーゲンやティーガー重戦車など、ポルシェの代表作として有名な車両を数多く開発しました。皮肉にもこの功績がナチスに多大な貢献をしたとされ、戦後、戦争犯罪人としてポルシェは収容所に収監されてしまいます。

1947年に釈放されてからは健康面が優れませんでした。長男のフェリー・ポルシェによる会社運営を見守りつつ、1950年11月に息を引き取りました。享年75歳。

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