【日本人が知らないニッポン】家康が学んだ「修羅の原点」臨済寺 (1/2ページ)
徳川家康という人物の前半生は、まさに苦難の連続でした。
そもそも、徳川家は16世紀中葉まで「地方の弱小豪族」に過ぎませんでした。大勢力からは人質を要求され、それに従わなければ討ち滅ぼされてしまいます。
だからこそ、家康は数度に渡り他家へ人質に出されました。
ですが、家康という男は苦難をチャンスに変える力も持ち合わせていました。
・僧侶は軍人だった
竹千代と呼ばれていた頃の徳川家康は、駿河今川領の臨済寺という寺社で修行に励んでいました。
この臨済寺を建てたのは、太原雪斎という僧侶です。ただし僧侶とはいっても、今のような平和的なお坊さんとはわけが違います。
日本仏教の僧侶は、戦国時代が終わるまで「大名の補佐役」という役割を担ってました。それは平たく言えば、軍師です。部隊を指揮する権限も与えられ、戦略の基礎を支えていました。
聖職者が高級指揮官として軍団を指揮する。これは日本特有の現象です。同時代のカトリックの神父も軍団に付き添い宣教活動を行っていましたが、それはあくまでも司祭という役割から外へ出ない程度のもの。作戦方針に対して発言することはあっても、自分自身が部隊を動かすということはまずありません。
それに気づくと、日本の戦国時代がいかに恐ろしいかがよく分かります。
・最先端の軍学を習得
家康は雪斎から学問の手ほどきを受けていました。ここで言う「学問」とは、もちろん軍学も含みます。
他家の人質になることの利点、それは「最先端の学問を習得できる」という部分です。たとえば毛利元就の嫡男である毛利隆元は、大内義隆の領国へ人質に出されていました。