西部警察を巡る「石原裕次郎・渡哲也」の激情バトル(2)裕次郎に賭けた、渡の決断 (1/2ページ)

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西部警察を巡る「石原裕次郎・渡哲也」の激情バトル(2)裕次郎に賭けた、渡の決断

 当時、テレビドラマ界は視聴率でTBSが独走し、これをNHKと日本テレビが追走。フジテレビとテレビ朝日が後塵を拝していた。

 朝日新聞出身で「テレビ朝日の天皇」と呼ばれた三浦甲子二専務は、起死回生の一手を石原プロに求めた。石原裕次郎、渡哲也というビッグネームを筆頭に多くの人気若手俳優を擁し、制作においては最高の技術力を持っている。

 いずれテレビ界もアウトソーシング(外部制作)の時代がやってくる。視聴率の取れる娯楽作品を作るとしたら、石原プロをおいてほかにない。時代を見据えた三浦専務の経営感覚であった。

 一方、コマサはここにビジネスチャンスを見た。テレビ局は放送枠を広告代理店に売り、広告代理店がスポンサー営業する。石原プロは制作を請け負うだけでなく、スポンサーを直接営業するという前代未聞の発想だった。

 テレビ朝日はこの条件を呑む──これがコマサの読みであり、「石原プロを再建する千載一遇のチャンス」と見たのだった。

 一方、日本テレビはどう出たかというと、意外にも気持ちよく送り出した。経営的観点から石原プロの直接営業を認めることができなかったこともあるが、当時のテレビ朝日は弱体で、新シリーズは失敗し、いずれ帰ってくるという思惑もあった。

 こうして昭和54年10月にスタートした「西部警察」は「PARTIII」まで5年間続き、看板番組としてテレビ朝日を牽引していく。

 今回、明らかになった秘史の一つだが、渡は「大都会PARTIII」の終わりをもって石原プロを退社するつもりでいた。渡は入社した当初から「5年」と区切りをつけていた。

 幸いにも石原プロは、何とか倒産危機を脱した。この時、渡は37歳。脂の乗った大事な時期をアクション刑事で通せば、俳優として決してプラスにはなるまい。そう決心した矢先、「西部警察」の話が持ち上がったのだ。

 コマサが石原邸でこの話を切り出した夜、帰宅した渡に裕次郎が電話をかけてくる。

──悪いな、遅くに。

「いえ」

──やることにした。

「はい」

──大変なのはテツだ。だからコマサに話す前に電話したんだ。

「お気遣い、ありがとうございます。

「西部警察を巡る「石原裕次郎・渡哲也」の激情バトル(2)裕次郎に賭けた、渡の決断」のページです。デイリーニュースオンラインは、向谷匡史週刊アサヒ芸能 2017年 4/13号渡哲也西部警察石原裕次郎エンタメなどの最新ニュースを毎日配信しています。
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