プロレス解体新書 ROUND49 〈夢のドーム興行が実現〉 異種格闘技戦で初めての黒星 (2/2ページ)

週刊実話


 「もともとは協栄ジムの金平正紀会長がソ連人ボクサーを招聘しようと動いていたもので、そんな中、プロ志望のアマレスラーや柔道家がたくさんいると分かり、猪木のところに話が回ってきたのです」(スポーツ紙記者)

 そこからの猪木の動きは早かった。コーチ役の馳浩らと共にソ連へ渡ると、アマチュア選手たちの育成に取り組む。“プロレスラーとは何たるものか”との心構えを手始めに、プロレスならではの約束事を、約半年間にわたりみっちりと教え込んだ。
 そうして誕生させたレッドブル軍団を目玉として、'89年4月にはプロレス界で初となる東京ドーム大会『'89格闘衛星★闘強導夢』の開催にまでこぎ着ける。当時、歴代最高となる5万3800人の観衆を集めた同大会で、メインイベントを務めたのはやはり猪木だった(それまでの最高動員数は'61年、日本プロレス奈良県あやめ池公園大会の3万6000人=無料観戦者を含んだ主催者発表)。

 当初発表された対戦相手は、レスリングフリースタイルで'76年のモントリオール五輪100キロ超級、'80年のモスクワ五輪100キロ超級で金メダルを獲得したソスラン・アンディエフ。相手がアマレスベースということで、リングもそれに合わせた円形でノーロープのものが特注で用意され、猪木もアマレス用のシューズで試合に臨むことになった。
 ところが、直前になってソスランが交通事故による負傷で出場不能となる。代わって登場となったのは柔道の金メダリストで、'72年のミュンヘン五輪100キロ以下級を制したショータ・チョチョシビリであった。
 「突然の変更、それもプロ経験のない選手との対戦となれば、並のレスラーならキャンセルしても不思議ではない。それを受け入れてなおかつ試合成立させたのは、さすが、猪木ならではの芸当でした」(同)

 しかも、舞台裏ではさらなる問題が生じていた。
 「この試合の勝利者賞として提供された高級車を見て、チョチョシビリが『あれが欲しい』と突然勝ちブックを要求してきたのです。とはいえ車なら、別途で渡せばいいだけのこと。大観衆の前での敗戦をプライドが許さなかったというのが実際のところでしょう」(前出・新日関係者)

 急きょ出場が決まったことで、契約関係に曖昧な部分もあったのだろう。これを拒絶すればメインカードが飛んで、記念すべき初のドーム大会に泥を塗ることになる。
 しかも、相手はプロレス用の練習経験がほとんどない柔道家。見せ場をつくるだけなら技を受ければ済む話だが、説得力のある勝ち方まで演出するとなると、相当な困難が伴う。
 しかし、猪木はこれを見事にやり遂げた。チョチョシビリの腕十字により負傷したとする左腕をダラリと下げたまま、必死の形相で闘魂をアピール。最後は裏投げ3連発に沈んだものの、その千両役者ぶりで“猪木健在”を大観衆に印象付けたのだった。

 この結果から「やはりビッグマッチに猪木は欠かせない」との声が再燃し、その正式引退は藤波戦から10年後の'98年まで持ち越されることになる。
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