年間8億円荒稼ぎの「ボッタクリ帝王」が明かしたワル手口(3)話術の勉強で寄席に通った

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年間8億円荒稼ぎの「ボッタクリ帝王」が明かしたワル手口(3)話術の勉強で寄席に通った

 影野氏は1959年、大阪の豊かな商家の3代目として生まれる。何不自由のない生活。順風満帆だった幼少期をそう振り返る影野氏を突然、不幸が襲う。

 高校2年の時、父が白血病で急逝。その心労がたたった祖父、祖母も立て続けに亡くした。身近な人間の裏切りなどの気苦労も重なり、母も体を壊す。家運傾く没落家系の典型だった。

 大学受験に失敗して予備校に通い始めた影野氏はアルバイトを始める。

 選んだバイトというのが、ピンクサロンの「ハワイ・チェーン」だった。

 77年、影野氏18歳のことだが、なんと、当時の大卒初任給の倍近くの高給だったうえ、チップなどの副収入もバカにならなかった。

 風俗は金になると、影野氏は脳裏に植え付ける。翌78年、東京の大学に合格。上京には母の強い反対があったが、生活費を自分で稼ぐことを条件に説得する。当時、大阪で好景気に沸いていたサービス業や風俗業界の状況は東京でも同じだった。影野青年には、歌舞伎町が男の夢とロマンと野望にあふれる街に映った。

 さっそく、歌舞伎町で偶然に声をかけられたピンサロでバイトを始める。

 入店初日のこと。古参のホステスから悲鳴が上がった。客が15分2万7000円の会計が高いと彼女を突き飛ばしたのだ。

 客が騒ぐと同時に、パンチパーマに口ヒゲ、派手な花柄のネクタイにストライプのスーツを着たマネージャーがドアを開けて乱暴に入ってくるや、伝票をテーブルに叩きつけ、ドスの利いた声で威嚇した。いかつい風貌に加え、がっちりとした体なのだ。

「で、どうするの? 払うの? 払わないの?」

 おびえた客は震えながら財布から3万円を出す。

「あんた、あんなに暴れたんだから、おつりはチップでいいね?」

 真っ青な顔になった客は、しぶしぶうなずくと慌てて店外に出て行った。“ボッタクリ店”だったのだ。

 ここから影野氏のボッタクリ人生がスタートする。

 とはいえ、当時は52キロの痩身で優男だった影野氏にゴタは処理できなかった。

「お前じゃ話にならん。責任者を呼んで来い」

 客から相手にされなかったのだ。どうしよう。影野氏は考えた。

 客を脅すことができないなら、客を納得させて金を獲ろう、と。

 それからは“勉強”に明け暮れる。ヒマさえあれば六法全書片手に、刑法から民法、法律用語を勉強。法知識で料金体系を理論武装し、言葉でやり込めるため、話術の勉強として寄席に通った。その努力が実を結び、頭角を現していく。

 翌年には早くも店を任されて店長となる。いよいよ影野氏に飛躍のチャンスがやって来た。風営法が大幅に改正され、摘発や逮捕を恐れたオーナーは店舗を名義ごと貸し出すことを考えるようになったのだ。影野氏にもオーナーから話が回ってきた。

 独立にあたり約400万円の金を要求されたが、ここは勝負の時、と全財産を吐き出し契約を結んだ。

 経営者になった影野氏は今まで以上にボッタクリにのめり込んでいった。

 何せ25歳の影野氏が最年長という、若い従業員ばかりの店だ。

「今、思い出しても、ゾッとするぐらいの怖いもの知らずだった」(影野氏)

 とにかく営業はイケイケで、客をタダでは帰さない。

 絶対にパンク(追加を払わない客)を出さないことを必須とした。パンクを出さないで売り上げを伸ばせば、キャッチは稼げるので必ず影野氏の店に客を入れる。おかげで店は順調だった。影野氏はある日、店の従業員たちに声をかけた。

「ヒマしてるなら表で女でも引っ張ってこい」

 このひと言で歌舞伎町にスカウトマンが誕生。スカウト部隊の結成となり、影野グループは、若いキャッチガールを使ったキャッチバーの元祖になった。この中から先の女帝・アヤカも生まれてきたのである。

 その結果、影野氏は歌舞伎町で「ボッタクリの帝王」とまで呼ばれ、20年間も君臨した。グループ全体で売り上げは年間8億円を超え、多くの愛人も抱えた。月に1000万は歌舞伎町で飲んで還元もしていたと、影野氏は豪語する。

笹川伸雄(ジャーナリスト)

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