甲子園「決着つくまで延長」ルールを激変させた後のプロ野球出身タレント

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甲子園「決着つくまで延長」ルールを激変させた後のプロ野球出身タレント

 板東英二といえば、年配の方はかつてプロ野球・中日ドラゴンズの投手として活躍した人というイメージがあるだろう。逆に50代から下の世代はバラエティタレントのイメージが強いのではないだろうか。

 現在の高校野球は延長15回終了時点で両チーム同点だった場合、選手の健康を考慮して引き分け再試合となるが、以前は延長18回での引き分け再試合という規定だった。58年の第40回大会以前のことだった。それまでは決着がつくまで延々と試合が続けられて、26年第12回大会準々決勝での静岡中(現・静岡)6‐5前橋中(現・前橋=群馬)の延長19回や33年第19回大会準決勝での中京商(現・中京大中京=愛知)1‐0明石中(現・明石=兵庫)の夏の甲子園史上最長イニングとなる延長25回の死闘の記録などがある。

 この延長18回引き分け再試合という規定が作られる発端は、58年の春の四国大会でのことだった。当時、超高校級といわれたエース・板東英二を擁した徳島商は1回戦で高知商と対戦。試合は2‐1で徳島商がサヨナラ勝ちを収めたのだが、延長16回を完投。さらに翌日の決勝戦では高松商(香川)と対戦したのだが、何と延長25回を戦うハメに。結果、25回表に2点を奪われ0‐2で惜敗。

 この時、板東は2日間で41イニングを1人で投げており、全国紙でもこの活躍は報じられ、全国の高校野球ファンからも一躍注目されるように。しかし、この板東を筆頭に選手に疲労が見られたことで高野連は事態を重く見て、延長戦に関するルールを急きょ変更することとなったのである。

 こうして延長18回が終わっても同点の場合は後日再試合が行われることとなったのだが、何と甲子園でこのルールの適用第1号となったのが当の板東だった。

 58年の第40回大会準々決勝で徳島商は魚津(富山)と対戦。板東の快速球に魚津打線は手も足も出ない状態だったが、一方の徳島商打線も魚津のエース・村椿輝雄にかわされ得点への突破口が開けない。結局、0‐0のまま突入した延長戦でもどちらのチームも得点を挙げることができず18回を終えた。こうして“延長18回で引き分け”という規定ができたその年に再試合が行われることとなったのである。翌日に行われた再試合で魚津の村椿は先発を回避しリリーフ登板に回ったが、徳島商はそのまま板東が連投。疲れを知らない鉄腕・板東は1失点で完投し、3‐1でようやく勝利をもぎ取ったのだった。

 この後、徳島商は決勝戦に進出したが、さすがの板東も疲労のピークを迎えていたのか柳井(山口)に打ち込まれて0‐7の完敗。徳島商としても徳島県勢としても夏の甲子園初優勝を逃してしまっている。

(高校野球評論家・上杉純也)=敬称略=

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