江戸の大半を焼いた「明暦の大火」後、幕府はいよいよ防火対策に本腰。江戸の町はどう変わった? (1/2ページ)

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江戸の大半を焼いた「明暦の大火」後、幕府はいよいよ防火対策に本腰。江戸の町はどう変わった?

明暦3(1657)年1月18日に未曾有の大火事、明暦の大火がおきたことで、幕府はいよいよ防火対策に取り掛かりました。江戸三大大火の一つ「明暦の大火」については以前ご紹介しました。

当時の混乱は凄まじかった…江戸の町が焼け野原となった「明暦の大火」

火除け地や防火堤で防ぐ

防火対策、まずは江戸城です。郭内に火除け地という空き地を造り、城下からの火災が発生しても城内への延焼を防げるようにしたのですね。また、大火以前は武家屋敷も豪華な建物で大きな門を構えていましたが、梁間三間(はりまさんげん)約5.9m以上の建築物は禁止になりました。そのため、江戸城下から豪華な武家屋敷はなくなってしまいます。

町人地には、火除け地防火堤を新設しました。日除け地は広小路とも呼ばれ、大火の延焼を防ぐことが目的です。これらを作るために市中の町屋を移すこともあり、中山道に通ずる外堀交通の要地=筋違橋門内にある連雀町もそのひとつでした。橋を火災から守るべく、近隣の住民は武蔵野の郊外へ移されたのです。

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