天下の猛妻 -秘録・総理夫人伝- 竹下登・直子夫人(中) (1/2ページ)

週刊実話

 昭和62年(1987年)10月、竹下登は時の自民党総裁(首相)だった中曽根康弘の「裁定」により、自民党第12代総裁(首相)に就任した。
 時に、総裁選をやっても竹下の圧勝が既定事実になっていたこと、中曽根自身が自ら竹下に譲ることで退陣後の政権への影響力を残すとの思惑の二つが働き、あえて「裁定」という形を取ったものといってよかった。竹下はこれで、飛び抜けた周囲への「気配り」と「辛抱」ぶり、一方で秘めた「したたかさ」で、病気で再起不能の“親分”田中角栄元首相の長い呪縛からようやく抜け出し、天下を手にしたということだった。

 気丈で鳴る妻・直子は夫が晴れて総裁に決まったその日、初めて夫の姿を目にした瞬間、さすがに感無量の涙で出迎えることになった。直子がそれまで夫の前で涙を見せたのは、昭和33年(1958年)5月、竹下が衆院選で初当選を飾ったときだけ。涙はそれまで、たった二度だけだった。その気丈ぶりが知れるが、一方で竹下に劣らぬ「気配り」ぶりも発揮した。この二つについて、竹下派担当だった政治部記者のこんな証言が残っている。
 「竹下は首相になった翌年1月、初の外遊としてフィリピンでのASEAN(東南アジア諸国連合)の会議に出席した。時に、フィリピンは政情不安と相次ぐ飛行機事故などもあって、周囲から『夫人の同行は取り止めたらどうか』の声が多々出た。しかし、夫人はキッパリ『主人とともに行きます』だった。『ハラがすわった“ファースト・レディー”だ』の声がしきりだったのです。
 そうした気丈さの一方で、首相になる前までは麻雀相手のほか、夜回りの記者への気配りも抜群だった。料理が得意で、魚の三枚おろしなどはお手のもの。鶏も1羽を巧みに解体、竹下家の“売り物料理”として記者に水たきをよくふるまっていた。そうした中、夫人は1杯入ったところでの記者との雑談でそれとなく情報収拾、ちょっとしたポイントを竹下にアドバイスしていたそうです。記者への気配りの中で、見事に“内助の功”を果たしたナカナカの女性でした」

 「内助の功」は、先のフィリピン外遊の直後の初訪米の際にも発揮された。これには、同行記者の証言がある。
 「日米首脳会談の相手は、レーガン大統領。

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