幕末の志士たちも惚れた!強者・楠木正成のアツ過ぎる一生[その四]

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幕末の志士たちも惚れた!強者・楠木正成のアツ過ぎる一生[その四]

前回の「幕末の志士たちも惚れた!強者・楠木正成のアツ過ぎる一生[その参]」」では、正成がかつての盟友・尊氏を呼び戻す案を出すが、朝廷に蹴られた逸話をお話しました。今回は、正成最後の戦いについて紹介します。

計略も無視され、死地に追い込まれた正成…湊川の地に出陣!

建武3年(1336年)の5月、迫り来る尊氏に手を焼いた朝廷は、謹慎させた正成を呼び出して尊氏迎撃の戦略を述べさせます。

「天子様は京都を離れて、比叡山にご避難下さい。足利軍を京都に誘い込み、ワシと義貞で敵の輸送路を断って兵糧攻めにすれば勝てます」

こうした正成の実利的な案に対し、武士を軽く見ていた公家衆は猛反対した挙句、彼の努力と貢献を踏みにじります。

「君は、二度も陛下に都落ちさせて権威を損なう気かね?」
「皇室が天の加護を受けているから、偉大なる朝廷は勝ったのだ」

その上、頼みにしていた後醍醐天皇までも彼らの言葉に乗ってしまいます。こうして正成は、士気も兵数も劣る状況下で、湊川で尊氏を迎え撃つことになったのです。

正成、愛する息子に未来を託す…桜井の別れ

正成は、湊川に行く途中で桜井の駅(大阪府)に立ち寄り、長男の正行(まさつら)を呼んで彼を故郷に逃がします。正行はそれを拒否し、「僕も父上のお供がしたいです」と訴えるのですが、正成は彼を諭しました。

「お前の顔を見るのも今日で最後…足利殿は確実に天下人となるだろうが、お前は忠誠心を忘れずに朝廷をお守りするのじゃ。一族郎党を一人でも生き残らせて、いつの日か朝廷の敵を倒しておくれ」

そう言うと、正成は後醍醐天皇から頂いた菊水の紋を入れた短刀を授けて楠木家の未来を託し、最愛の息子と涙ながらに別れたのでした。

5月24日、正成は湊川に到着して義貞と合流します。連戦連敗の義貞は尊氏にはどうしても勝てず、苦悩していました。義貞嫌いのイメージが強い正成ですが、追い込まれて憔悴しきった義貞を慰めて酒を酌み交わします。その義貞と楽しんだ酒盛りこそ、正成にとって最後の晩餐となったのでした。

激戦、湊川の戦い!されど、正成の天命は尽きていった…

翌朝、5月25日の辰刻(午前8時)に九州から多くの武士に守られた尊氏の船団が湊川に到着します。義貞は三方向が海に面する和田岬に、正成は湊川西部の会下山に布陣しました。双方が矢を射かけ、刃を交えた大乱闘に発展しますが、義貞がミスを犯します。

「先頭で東に上陸しようとしている船にこそ、尊氏がいるのでは?」

しかしそれは足利軍の妙計であり、尊氏は後方の船にいたのです。まんまと誘導されてしまった義貞が和田岬の防備を手薄にしてしまったため、楠木軍と新田軍は分断されてしまったのです。

しかも、退路を断たれるのを恐れた義貞が一目散に逃げ出してしまったことで正成達は孤立してしまい、700余騎で尊氏の大軍を相手にする事になります。逃れられぬと悟った正成は、足利直義(ただよし。尊氏の弟)の軍に16回も突撃をして損害を与えました。

この戦いは6時間にも及び、楠木軍は73騎にまで減って正成自身も11か所に傷を追って力尽きてしまいます。正成と正季らは一軒の民家を見つけ、そこを最期の場所に決めました。正成が死ぬ前に何を思うかと正季に尋ねると、

「兄貴…俺は7たび人間に生まれ変わって、朝廷の敵を倒したいよ」

それに対して正成もうなずき、

「罪深い事を考えているなぁ…ワシも同じだよ」

そして、正成と正季は刺し違えて自害し、配下全員も自決しました。盟友の末路を知った尊氏は正成を不憫に思い、その首級を故郷の家族に引き渡します。こうして正成の一生は終わりましたが、その後も彼の生き様は伝説として語り継がれます。次回は、後世に語り継がれた正成について紹介します。

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