横綱だけど弱い大関?初めて横綱として番付に載った西ノ海の複雑な事情とは? (1/2ページ)

Japaaan

横綱だけど弱い大関?初めて横綱として番付に載った西ノ海の複雑な事情とは?

初代横綱は番付表に載らなかった

大相撲の最高位である横綱。初めての横綱は江戸時代の明石志賀之助とされていますが、初めて番付に載った横綱は、第16代横綱の西ノ海嘉郎(1855~1908)。初めて名前を聞く人も多いと思います。

そもそも横綱とは、土俵入りでつける注連縄そのものを指す言葉でしたが、いつしか綱を締める権利を持つ大関の称号になりましたが、番付上はあくまで「大関」でした。

なぜ横綱が番付に載るようになったのかを紐解くには、少し遠回りしなければなりません。

江戸相撲と大坂相撲

江戸初期、相撲興行において暴力沙汰が絶えないことから、幕府は寺社による勧進目的の興行しか赦していませんでした。しかし、興行が大坂で元禄15年(1702)年に興行目的の相撲が解禁になると、大坂と江戸で平行して行われるようになります。大坂は大坂で大関がいましたし、江戸は江戸で大関がいた、ということになります。また、他の地方でも相撲興行は行われており、統一されていない体制は日本相撲協会が発足する1921年まで続きました。興行が全国で統一されたのは割と近年のことなのです。

横綱の誕生と吉田司家

古くは奈良時代から朝廷で行われていた相撲節会。吉田司家と京都五条家はその相撲節会を執り行う役目を負った司家でした。朝廷による相撲節会が衰退し武士による相撲興行が盛んになると、吉田司家は熊本藩・大名家の細川家に仕えます。

19世家元・吉田追風が、寛政3(1791)年の将軍の上覧相撲を機に、谷風梶之助と小野川喜三郎という人気力士に注連縄をつけて土俵入りさせるというデモンストレーションを思いつきます。これが大人気となり、瞬く間に全国に伝播します。

吉田司家の勢いに権威失墜を恐れた京都五条家も、負けじと横綱免状を発給し始めます。

「横綱だけど弱い大関?初めて横綱として番付に載った西ノ海の複雑な事情とは?」のページです。デイリーニュースオンラインは、相撲・大相撲・力士カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る