歴史に秘められたニッポンの「陰謀論」を解け!(4)知られざる「太平洋戦争」の真実 (1/2ページ)
戦争の時代として記憶される昭和。その一大エポックとなったアメリカ・真珠湾奇襲攻撃には、知られざる驚愕の“陰謀”が隠されていた‥‥。
真珠湾攻撃といえば、1941年12月8日未明(現地時間7日)、ハワイにあるアメリカ海軍太平洋艦隊の基地を日本軍が奇襲し、大損害を与えたというのが、歴史上の定説である。しかし、その“奇襲”という部分に陰謀が働く要素がある──そう話すのは、「陸軍中野学校のすべて」などの著作があるノンフィクション作家・斎藤充功氏だ。
「アメリカが日本の奇襲をまったく知らなかった、あるいは予期もしていなかったと考えるのはあまりにもナイーブで、当時の国際情勢を巡る秘密工作・情報機関の暗躍を無視していると言っていい」
当時、どの国にも情報機関があった。それらの機関が情報を察知していたのだろうか。
「当然でしょう。アメリカにはMIS(陸軍情報部)という優秀な諜報機関があった。そのほかにもCIC(防諜隊)などの機関を持ち、日本よりも大きな規模で諜報活動を行っていた。日本の動きは逐次、厳重な監視下に置かれている。実際、真珠湾攻撃もかなり、読み切っていた。日本の大本営と日本海軍の間の打電によるやりとりも相当数、把握しており、その8割近くは解読されていた」(前出・斎藤氏)
となると、真珠湾奇襲をアメリカは知っていたことになる。攻撃の7日前の12月1日、日本は御前会議において、「攻撃の30分以上前に」宣戦布告することを決定。翌2日の17時30分には、大本営が日本海軍機動部隊に対して、「ニイタカヤマノボレ一二〇八(ヒトフタマルハチ)」という暗号を打つ。
「ニイタカヤマノボレは真珠湾を攻撃せよ、一二〇八は言うまでもなく、12月8日のこと。実際、この打電どおりに攻撃は行われた。前述したように、アメリカは暗号の8割を解読していた。日本軍の奇襲攻撃が近々ありうることは想定していたが、ただ、残念ながら正確な日時までは把握できていなかった。