サムライも虜に!幕末〜明治時代にアイスクリームを日本に広めた人物とは?

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サムライも虜に!幕末〜明治時代にアイスクリームを日本に広めた人物とは?

ドラマ「この世界の片隅で」に登場したアイスクリン。おいしそうにほおばる主人公を見ていたら、こちらも食べたくなってきました!ところでこのアイスクリン、日本人が初めて口にしたのは幕末の頃。アメリカに渡った使節団といわれています。



侍をとりこにした味

1860年(万延元年)、幕府が派遣した「遣米使節団」が渡米。勝海舟率いる咸臨丸も護衛のため随行しました。その際、使節団を出迎えたフィラデルフィア号にて、おもてなしの食事のデザートにアイスクリームが出されたそうです。

使節団の一員・柳川当清は日記に「珍しきもの有 氷を色々に染め物の形ちを作 是を出す味は至てあまく口中に入るゝにたちまち解けて誠に美味なり 是をアイスクリンと云」と書いています。

『万延元年遣米使節図録』国立国会図書館より

アイスクリンに魅了された一人に、同じ使節団の町田房蔵という者がいました。彼は再度渡米して、アイスクリンの製法を学んだといいます(諸説あり)。そして帰国すると、横浜の馬車道に「氷水屋」という店を開き、氷に黒蜜などかけて食べるかき氷「氷水」と共に、「あいすくりん」を販売しました。

原料は、生乳・砂糖・卵黄といたって単純、現在のカスタードアイスに近い味だったようです。

しかし当時一人前の値段は金二分(現在の価値で約8千円~1万円)と大変高価な物であったため、庶民から敬遠されてしまい、経営はまたたくまに赤字に陥ってしまいました。しかし明治3年4月、「伊勢山皇大神宮」創建祭の時期に再開したところ、評判を得て持ち直したようです。

この伊勢山皇大神宮というのは、明治初年、現在の桜木町駅付近に国費で建造された神社で、祭神はアマテラスオオミカミ。建造当初から大賑わいで「関東のお伊勢さま」として親しまれました。房蔵もご利益にあやかってよかったですね。

もう一人の立役者

「あいすくりん」に製造に必要な氷は、中川嘉兵衛という者から仕入れていました。彼は初代英国公使・オールコックのもとでコック見習いとして働いていた経歴を持ち、氷業に人生を賭けた人物です。彼は当時輸入物の氷に打ち勝つべく、国内様々な場所で氷の切り出しに挑戦し、最終的に質のいい北海道の「函館氷」の切り出しと氷室の建造、販売ルートの確保に成功したのでした。

こういった人々の活躍と努力によって、あいすくりんは次第に庶民にも手に入る存在になっていったのですね。

ちなみに町田房蔵は、正確には「日本人としての最初のアイスクリーム販売」で、実はアメリカ人興行師リチャード・リズリー・カーライルにより、一足先にアイスクリーム販売は行われていたのでした。

彼はサーカスを売り物に来日しましたが、横浜居留地でしか興業が許されなかったため安定した収入を得ることができず、再来日の際に氷や牛乳、アイスクリーム販売へ事業を転換したのでした。

しかし、横浜居留地112番にアイスクリーム・サロンを開いたといいますから、日本人向けというよりやはり外国人向けでしょう。やはり房蔵が「日本のアイスクリームの父」と呼ぶにふさわしい気がします。

横浜の関内には、昭和51年11月に日本アイスクリーム協会が寄贈した像が建っています。「太陽の母子像」といって、ミルクのイメージから母乳で子供を育む姿です。牛と子牛という直接的な表現ではないところに、アイスクリームを作り出した人間の創造力の豊かさも感じます。

設置された場所は、町田房造の店があった場所から馬車道をはさんで向かい側です。さまざまな西洋文化の入口となった横浜。美味しいアイスを食べながら馬車道をそぞろ歩いてはいかがでしょうか。

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