15歳にして「悪(にく)らしいほど強い武士!」となった鎌倉悪源太こと源義平の武勇伝(上) (3/4ページ)
月岡芳年「新形三十六怪撰」より、大暴れする源義平
「野郎ども!叔父貴たぁ言え親父の敵じゃ!遠慮は要らねぇ、やっちまえ!」
一気呵成に殴り込み、数倍いたともいわれる敵の軍勢を蹴散らし、見事に義賢や秩父重隆(ちちぶ の しげたか)らの首級を上げました。
以来、義平の武勇は東国に知れ渡り「鎌倉悪源太」と恐れられたそうです。
これが後世に伝わる「大蔵合戦」、翌年に勃発する保元の乱(保元元1156年)の前哨戦とも言われ、坂東における義朝らの勢力が盤石になると同時に、為義との関係は修復不能になり、やがて悲劇的な結末を迎えるのでした。
もみ消し切れぬ争いの火種、立ち込める暗雲ところで、当時いくら世が乱れていたと言っても、朝廷の許可=天皇陛下の勅(ちょく。命令)なく勝手に戦争すること(私軍)は禁止されていました。
今回の「大蔵合戦」は義平の「やられる前にやっちまえ」という動機がきっかけであり、当然そんなものが正当な理由として認められるはずもなく、本来であれば義平は処罰を受けなければなりません。
しかし、ここで京都にいた父・義朝による武蔵国司への根回しが効いたのでした。
国司(こくし/くにのつかさ)とはその国の支配者ですが、多くの場合は代理を派遣し、本人は京都にいました。