【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第26話

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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第26話

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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第25話

■文政八年 玉菊灯籠の夏(1)

「花魁」

暗い部屋で二人きり、佐吉が哀しい目をしてみつを呼んだ。

「ごめん、おいらア、もう会えねえ」

なんで、と訊こうとした時、佐吉がくるりと背を向けて着物を床に散らした。

闇に浮かんだ男の白い背中を見て、みつは思わず呼吸(いき)を呑んだ。

男の広い背中一面に禍々しい大きな龍が一頭わだかまって、じっとこちらを睨めつけている。

歌川国芳「禽獣図会 龍虎」(部分)ボストン美術館蔵

「触って、」

と佐吉が言った。

「花魁のために、こいつはここに宿ったんだから」

みつは恐る恐る手を延べた。

細い指先がひしめく龍鱗に触れた瞬間、龍の絵がばりばりと音を立てて背中から剥離し、あっという間に空間に立ち昇った。龍は不思議な光を宿した目でみつを一瞥すると、みつを攫って窓を突き破り、果てしない江戸の夜空を巻き上げる青嵐のように高く遠く躍り出た。

みつは振り落とされまいと、必死に龍の身体にしがみついた。

雲よりも高く空よりも広い大気の中を、龍とみつは稲妻のごとく疾駆した。玻璃の花びらのような龍鱗の一つ一つがザアアッと風に逆立ち、不思議な光彩を放った。みつの目は十数年ぶりに廓の外の、江戸の町を映していた。

歌川広重「名所江戸百景 する賀てふ」Wikipediaより

「あんた、どこに行くの」

みつは遥か下に江戸の町を望みながら、叫ぶようにして呼びかけた。

巨大な龍は何一つ答えずに、名前もない大空の狭間を真っ直ぐ貫き続ける。

「まあいいか、」

とみつは独りごちた。

どこでも、いいか。

「あんたと一緒なら、どこへでも飛んでゆける気がする」

ねえ、

「国芳はん」。・・・・・・

みつが微笑み、二人は爽やかな甘酸っぱい夏の匂いの只中にドボンと頭から飛び込んだ。

そしてそこで、目が覚めた。

視界には、いつもの色のない岡本屋の格子天井が広がっている。

すでに、見た夢がどんな夢であったか思い出せなくなっていた。

なんとなく、胸のあたりが切ない。

そういう感触だけが残った。

気晴らしに湯屋でも行こうと妹女郎の美のるを連れて木戸門の外に出ると、吉原遊郭仲之町ではすでに可愛らしい灯籠が引手茶屋の軒先を彩っていた。

毎年六月の晦(つごもり)を迎えると、平素からすだれと花色のれんを掛けている引手茶屋には揃いの灯籠が飾られる。

十返舎一九/葛飾北斎「青楼絵抄年中行事 上之巻より 玉菊灯籠の図」国立国会図書館蔵

玉菊灯籠と呼ばれる初夏の吉原の風物詩だ。

一軒の茶屋につき十ほども吊るしたから、みつの暮らす京町一丁目の水道尻から全体を望めば七夕の天の川もかすむほどにまばゆく燦爛した。

みつと美のるは肩を並べて湯屋に向かってぽつぽつ歩きつつそれを眺めた。

「今年の玉菊は、花灯籠だね」

美のるが円らかな灯籠に花の絵が施されているのを見て、嬉しそうに言った。

みつも微笑んで、

「丁目ごとに花が少し違うのも、なお良いね」

「うん、可愛いね」

今年は花の模様を入れようと、町の垣根をこえて茶屋同士で示し合わせたのだろう。そもそも玉菊灯籠はその昔、角町中万字屋の玉菊という気だてのよい花魁が若死にしたのを弔うために始まったという。玉菊という名のもとに吉原遊廓全体が一つに協力するほど、彼女はきっと誰からも愛される素敵な花魁だったのだろうと、みつはぼんやり思う。

(今あたしが死んだって、きっと紫野灯籠とはならないもの。・・・・・・)

色の映らない瞳の中で、丸い花灯籠が風に吹かれて根無し草のようにふわふわと揺蕩った。

「姐さん、十三日の休みにさあ、会うの?」

妹の一言に、みつは虚を突かれた。

「え?」

だからあ、と美のるはみつの耳もとにくちびるを寄せて、

「あの人と」。・・・・・・

勘の良いいたずらな目が、みつを覗き込んでにっこりした。

「知らないよ。そんなの」

痛い所を突かれたみつはむきになって、手ぬぐいの先に結んだ赤い紅葉袋(ぬかぶくろ)でぺちんと美のるを叩いた。

湯から上がって岡本屋に戻ると、飼い猫のぶちが擦り寄ってきた。抱き寄せると、首輪に何か文が付いている。

慌てて開くと、男の字で「十三日、忍ぶ」と書かれていた。右下には小さく七夕の笹の絵が添えられている。

「ぶち、これ、どこで!?」

訊いても、ぶちはにゃあと鳴くだけだ。もしかするとぶちはみつの見たこともない吉原の外の世界にまで出掛けているのかも知れない。

(国芳はんだ・・・・・・!)

喜びのあまりぶちを抱きしめると、ぶちは嫌がって爪を立てて腕の中から逃げ出した。

・・・・・・

少しすると、国芳が文に描いたような七夕の笹が吉原じゅうの女郎屋の屋根に立てられた。

歌川広重「市中繁栄七夕祭」Wikipediaより

青い空に届きそうなほど高く長い笹である。飾りは色紙で作った網飾りや吹き流し、客を招くという験担ぎの扇、または吉原の路傍のそこかしこに生えている鬼灯(ほおずき)の実を数珠つなぎにしたものなどだ。もちろん願い事の短冊も飾ったが、吉原は吉原らしく、短冊には好きな男または一番懇意にしている客の名をしたためる。みつが暮らす京町一丁目の岡本屋も、例に漏れず七月六日の夜中に屋根に笹を立てた。

「姐さん、姐さん」

七日の昼四つ時(午前十時)、岡本屋の花魁部屋では子どもたちがみつのまわりでうるさく囀っている。

みつは花魁のくせに姉女郎の中で一等気さくでちっとも怒らないから、禿(かむろ)やらまだ幼い見習い女郎たちがひどく懐いて、袖を引いたり膝の上に乗って来たりと常にみつにまとわりついてくる。

「なあに、どうしたの」

「姐さん、好きな人が出来たんでござんしょう」

まだ八つか九つの子どもたちが誰に吹き込まれたのか、ませた口ぶりでにこにこ言う。

「まあ、誰に聞いたの」

みつが目を丸くすると、誰にも、と子どもたちは首を振った。

「だって、知らない殿方のお名前がありんしたもの。・・・・・・」

そう言って小さな指が差したのは連子窓の外、空高くあがった七夕の青笹である。

「まあ、この子達ときたらいちいち一枚ずつ姐さんたちの書いた短冊を読んだのかえ。そんな暇どこにあるのかしら。・・・あら、おりんももう字が読めるの?」

岡本屋で一等年齢の幼い六つのりんも、生え替わりで前歯の抜けたひょうきんな顔でにいっと笑った。

子どもたちの言う通り、今年の短冊には正直に歌川国芳の名を書いた。

去年は気が引けて書けなかったが自分でも始末に困る想いが日に日に募って、今年はついに神仏どころかまじないめいた七夕の短冊にまで願ってしまった。

みつは子どもたちと目線を合わせ、それぞれの顔を見ながら、

「皆、毎朝神棚の神様に、手を合わせてご唱和するでしょう?」

「あい」

「その時に、心の中であたしがその人と上手く行きますようにって、お願いしてくれる?」

子どもたちは全員顔を見合わせて、嬉しそうに何度も頷いた。ここに寝食する子どもたちは毎日、姉女郎の惚れた腫れたの話を肴に美味しい美味しいと米をかきこむくらいだから、こんな事を頼まれると俄然張り切ってしまう。廓育ちのみつは、勿論その事をよく知っている。

「もしも上手く行ったら、皆いんなにべっ甲の簪買ってあげる。ね?だからこの事は他の姐さんには内緒だからね」

子どもたちは、何か重要な仕事を仰せつかったような表情で、あい、とあどけない返事をした。

トップ画像:歌川広重「市中繁栄七夕祭」Wikipediaより

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