血と死と殺し合い…ケガレにまみれて生きる武士たちが信心深い理由とは? (3/3ページ)
そもそも武士は、基本的に自分以外の何者をもアテにすべきではありません。
もちろん、つね日ごろ助け合うことも多々ありますが、誰かに助けてもらうことを前提とした行動や思考を持たない、という意味です。
神様の御加護とて同じこと。
「天地神明も御照覧あれ(天よ地よ、どうか私をお見守り下さい)」
ここ一番で武士がよく使うフレーズですが、武士は神仏に対して「見ていてくれ」とは言っても「助けてくれ」とは言いません。
自分が正々堂々と振舞うさまを見届けて欲しい。そうすれば、自分の生死に構わず、悔いなく戦える。
ふとした油断や心のスキから「あぁ、日ごろから神仏をきちんと拝んでおけばよかった!」などと浅ましい未練が残らないよう、悔いなく生き切るためにこそ、日々怠りなく神仏を拝むのです。
武士は生きるために戦い、戦うために生きています。常に死を我がものと覚悟し、その一日を悔いなく生きる決意と、とにもかくにも生き切れた感謝の気持ちで、武士たちは朝に夕に神仏を拝むのです。
まとめ「お天道様が見てござる」武士と神仏の関係は、現代の私たちにも言えること。神様に何かしてもらうのではなく、私たちのすることを見届けて頂くのです。
「お天道様が見てござる」
昔からよく言われるフレーズですが、お天道様が見ているからこそ悪いことはできないと同時に、心強く全力で生きることができるのです。
古来、日本人は神羅万象に「神」を見出し、海を渡って来た「仏」の教えを取り入れながら自然を敬い、生命を慈しみながら生きてきました。
ことに戦という自然の摂理からかけ離れた「殺し合い」により、ケガレにまみれて生きる武士なればこそ、人一倍信心深く、神仏に寄り添おうと努めたのかも知れません。
※参考文献:和辻哲郎・古川哲史 校訂『葉隠 上』岩波文庫
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