明智光秀の信長討伐は「氏族再興を阻む外交への不満」が原因(2)光秀の「前半生」は苦難の連続だった (2/2ページ)
しかし、1552年、土岐氏最後の守護・頼より芸のりが斎藤道三によって美濃を追われ、土岐氏は没落していった。
「光秀の前半生は、土岐氏再興を胸に秘めながら、苦難の連続でした。上洛後、信長に仕え、土岐氏再興の道筋が見えてきたやさきに唐入りとなれば、現地へ行かされる一族は死滅する。一族生存への責任を果たすためには、一刻も早い時期に謀反を起こして止めるしかない。単なる恨みつらみが原因ではなかったと考えるのが妥当なんです」
光秀の出自や、上洛までの前半生に関する資料は、現在のところ「ない」とされている。だが明智氏は、「ない」からといって存在しないわけではないと言う。
「2014年に『本能寺の変』直前の状況に関する二つの資料が発見されましたが、いずれも、存在しながら死蔵されていた文書でした。光秀の出自や前半生に関しても、もし研究のスポットライトが正しいところに当たれば、新資料が発見されるかもしれません」