北島三郎と石川さゆり、NHK紅白歌合戦で夢の顔合わせ「演歌の花道」秘話 (2/5ページ)

日刊大衆

すると、それは流しの歌手の元締め的な人物だったんです」(前同)

 華やかなレコード歌手の募集ではなかった。 「それでも、“歌ってお金をもらえるのなら”と、東京・渋谷を拠点に流しの歌手を始めたんですよ」(同)

 その生活は約6年も続いた。サブちゃんが連日連夜、酔客を相手に3曲100円で歌っていた頃に、石川さゆり(本名:石川絹代)は熊本県に生まれている。

■漫才コンビを組んで活動も

 さて、なかなか表舞台に立つことがなかったサブちゃんだが、25歳の頃に思わぬ転機が訪れる。偶然、日本コロムビアの関係者と知り合い、作曲家の船村徹(故人)を紹介されるのだ。さっそく船村に弟子入りし、レッスンを受けながらチャンスを待つも、デビューは決まらない。

 仕方なく、食べていくために、同じ門下生と漫才コンビを組んで活動している。「映像は残っていませんが、ギターを抱えた歌謡漫才だったとか。コンビ名は『ゲルピン・チン太・ポン太』。チン太が北島さんでした」(芸能プロ関係者)

 ただし、ネタはほとんどウケなかった。「台本は船村さんが書いたらしいですが、すぐにお払い箱になったようです(笑)」(前同)

「北島三郎」の芸名でデビューできたのは62年。 ところがデビュー曲の『ブンガチャ節』は、なんと発売1週間で「歌詞が卑猥である」との理由から放送禁止に。いきなり出鼻をくじかれたのだった。

 しかし、運良くセカンドシングル『なみだ船』がヒットすることで、人気歌手の仲間入りを果たし、翌年には『紅白』に初出場。そして、65年には『兄弟仁義』『帰ろかな』、さらに『函館の女』が連続大ヒット。『兄弟仁義』は東映で映画化され、自らも出演。こちらもヒットシリーズとなることで、スターの地位を盤石なものにした。「『函館の女』は当初『東京の女』という曲でした。ところが、どうもピンとないことから、故郷のご当地ソングに変更。カラッと明るい曲調は北島さんのキャラにハマり、愛される曲となるんです」(同)

 72年には、所属していた新栄プロダクションから独立。「北島音楽事務所」を設立している。

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