死者を埋めた場所に石を置くようになった理由や墓石へと発展していった歴史 (3/6ページ)

心に残る家族葬



■仏教伝来前に遺骸の上に石を乗せている状況が見られた

とはいえ、仏教伝来以前、縄文時代後期と覚しい、岡山県笠岡市の津雲(つくも)貝塚などでは、遺骸の上に石を乗せている状況が見られた。それは、死者の魂は生きている人の魂とは異なり、人に災いをもたらすと考えられ、それをさせないように、わざわざ石を置いていたと推察されている。

その「石」が後に、文字が刻まれた「墓石」になるわけだが、広く行われるようになるのは11世紀中頃のことだという。当初は十三重塔や宝篋印塔(ほうきょういんとう)、または石造りの仏像などのような宗教的モニュメントだったのだが、だんだんと、土地の有力者の法要や合戦などで亡くなった人々の供養のために立てられるようになった。とはいえ、墓所に「墓石」を立てる風習が全国規模で庶民の間にまで広がるのは、江戸時代以降のことだった。殊に庶民の場合は、亡くなった際に土中に埋め、そのそばに木の卒塔婆を立てる程度だった。場合によっては、死骸が菰(こも)に包まれたまま、放置されていたりもした。そうは言っても、人の死が粗雑に扱われていたわけではない。先祖の霊は別の場所に祀っていた。つまり、先祖を祀る「場所」と、死骸を埋める「場所」とは別の、いわゆる「両墓制」が当たり前だったのだ。埋葬において、土葬よりもスペースを必要としない火葬が普及するにつれ、だんだんと1箇所になっていったという。

■先祖を祀る墓と死者を埋葬する墓の両墓制が廃れていった理由

この風が広まった大きな要素としては、真宗寺院の果たした役割も大きい。寺領を有し、そこからの「収益」の方が檀家からのものよりも多かった真言・天台・禅宗諸寺とは異なり、真宗寺院の場合は、檀家からの布施によって運営されていたことから、武将などの土地の名士のように、先祖代々の菩提寺を持たなかった民衆に広く浸透させる必要があったのだ。それゆえ、真宗寺院の敷地内あるいはその周辺に墓所が設けられるようになった。
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