死者を埋めた場所に石を置くようになった理由や墓石へと発展していった歴史 (5/6ページ)

心に残る家族葬

産出する石材によって形態が大きく異なるが、秩父産の緑泥片岩(りょくでいへんがん)でつくられ、質・量ともに充実している「武蔵型板碑」は、埼玉県と東京都の全域・群馬県と栃木県の南部・茨城県と千葉県の西部・神奈川県の東部・山梨県と長野県の一部に4万基ほど、散見される。葛西城で再利用されていた板碑は、現在の葛飾区内に立てられていたものを流用したのか、全く別の場所から今で言う「建築資材」として持ち込まれたものだったのか、判然としない。しかし、葛西城建設に携わった人々や、葛西城に住んでいた武士たちは板碑を使うに当たって、何らかの「お祓い」「お清め」などをしたのかもしれないが、「たたり」「霊」などを「気にしていなかった」ことは間違いない。

■単なる石の塊とみなされたり考古学的に貴重な遺物としてみなされたりしてきた墓石

民俗学者の宮本常一(つねいち、1907〜1951)は1948(昭和23)年、全国各地の墓地や墓石を調査した論文において、「国の中は墓石ばかり多くなろうとしているが、これは古くからの国ぶりではなかった…(略)…我々の名はこうして石にまできざみつけて残すほどの価値のあるものでもなさそうである。我々は我々のした仕事が人々に記憶せられるものでありたい。そしてそれがよき墓標であろうとは、おびただしい墓石の群れを見るたびにしみじみ思うのである」と締めくくっている。生前にあらかじめ、デザインや石材にこだわり抜いた墓石を準備し、死後、そこに入ることになっても、または遺族によって立派なものが立てられたとしても、何百年か経った後、価値観の大きな変化によって、単なる石の塊と見なされ、葛西城内の井戸の敷石のように「再利用」されたり、福岡市西区今宿のように投棄された状態になっている可能性もある。そしてそれらが更に時を経て、「昭和」「平成」などの時代を知るための貴重な「考古学資料」として、国内外の博物館や歴史資料館に陳列されるかもしれない。




■墓石の今後は

墓石としていつまでもその土地で大切にされ続けたほうがいいのか、それとも単なる「石の塊」と見なされたほうがいいのか。簡単に答えを出すことは難しい。何故なら、我々は宮本常一のように、必ずしも「我々のした仕事」が不特定多数の人々に「記憶せられる」とは限らない。

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