プロレスラー世界遺産 伝説のチャンピオンから未知なる強豪まで── 「ジョニー・パワーズ」猪木とNWF王座を争った新日草創期の看板外国人 (2/3ページ)

週刊実話



 しかし、’73年に2度目の王座に返り咲いた後の防衛戦では、猪木の挑戦を受けて敗退。以後、NWFのベルトは新日の管理下に置かれ、’81年にIWGP構想とともに封印されている。

「猪木にベルトを奪われたことで、アメリカのNWFが衰退したとする説もまことしやかに流れたが、これは事実ではありません。不動産のサイドビジネスでの負債返済のため、パワーズが新日へNWF王座の権利を譲渡したというのが真相で、この際の売却額は1万ドルといわれています」(同)

 70年代中盤は円ドルが固定相場から変動相場へ移行したばかりの頃で、為替レートは1ドル300円前後。物価も現在の3分の1程度だったことから、当時の1万ドルは現在の1000万円程度の価値と推測できる。

★日本での評価を覆す実力の片鱗

 こうした経緯もあり、パワーズに対しては“猪木にベルトを譲った選手”というぐらいの認識しかない日本のファンは多いだろう。必殺技のパワーズ・ロック(8の字固め)も、うたい文句は“4の字固めの2倍強力”であったが、見た目には4の字と大差がなかった。

 後年、猪木自らも「パワーズは下手くそだった」と評している。しかし、パワーズの記録をひも解くと、アメリカにおいてはルー・テーズやジン・キニスキーのNWA、ブルーノ・サンマルチノのWWWF、バーン・ガニアのAWAといった主要タイトルへの挑戦もあり、独立系レスラーとしてはかなり幅広く活躍していた様子もうかがえる。

 ’60年のデビュー当時は、金髪のイケメンレスラーで“ブロンドボンバー”とも呼ばれていたようだ。日本ではカーリーヘアのイメージだが、それは壮年期から着用するようになったカツラであり、猪木に卍固めを決められた際には、頭に足がかかってカツラが外れないよう必死に防御していた。すると、その姿がもがき苦しんでいるようにも見え、フィニッシュシーンがより鮮烈になるという副産物もあった。

「今になって猪木戦の映像を見ると、上背もパワーもそれなりにあるし、動きはもっさりしているものの、スピニング・トーホールドからパワーズ・ロックにつなぐ脚攻めも理にかなっている。ただ“死神”のニックネームもあったように、とにかく表情が暗い。
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