ジャイアント馬場追善興行、アントニオ猪木氏来場!ドリー・ファンクJr.&馳浩氏も! (1/2ページ)

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ジャイアント馬場追善興行、アントニオ猪木氏来場!ドリー・ファンクJr.&馳浩氏も!

 サプライズはまだ用意されていた。

 19日に両国国技館で開催される『ジャイアント馬場没20年追善興行〜王者の魂〜』の実行委員会は、同興行にアントニオ猪木氏、ドリー・ファンクJr.、馳浩氏が来場すると発表した。

 猪木氏は馬場さんと同日にデビュー。日本プロレス時代はBI砲のタッグで、インターナショナルタッグ王座(現在、全日本プロレスが管轄している世界タッグ王座の2本のベルトのうち1本)を獲得するなど、日本中にBI砲旋風を巻き起こした。

 1972年に日本プロレスを追放された猪木氏が新日本プロレスを旗揚げすると、翌73年に馬場さんが全日本プロレスを旗揚げ。以降、両者はライバル団体の代表として激しく対立。79年8月26日に東京スポーツが主催した『プロレス夢のオールスター戦』では、BI砲が復活。新日本のリング、キャンパスを使用したため、馬場さんが新日本のリングに上がったように見えて斬新だった。

 しかし、試合後に猪木氏が馬場さんに対戦アピールを“フライング”したことから、馬場さんの猪木氏への不信感が深まり、1980年代は新日本と全日本の間で外国人選手を中心とした引き抜き合戦に発展。馬場さんは日本プロレス時代にかわいがっていた坂口征二氏が新日本の社長に就任する1989年まで、新日本とビジネスをしなかった。

 ただ、一説によると興行のバッティングを避けるため、2人はたびたび会っていたという話もある。今年、猪木氏が出演した番組で「亡くなる数ヶ月前に偶然会って『お前はいいなぁ』と言われた。それが何を指していたのかは分からないけど、それが最後の会話になった」と明かしている。また馬場さんが猪木氏の引退試合の際、電報を送ったが読まれなかったという話もある。このあたりのエピソードが当日どこまで語られるのかも注目だ。

 猪木氏は「元気ですかー!元気があれば、オールスター戦も出来る!馬場さんと一緒に闘った1979年のプロレスオールスター戦を今でもよく思い出します。こうして多くの団体が揃ってプロレスの大会を行う事は、業界にとって良い事だと思います。2月19日にはお集まり頂いたプロレスファンの皆様とともに、元気に大会をスタートさせたいと思います。行くぞー!1、2、3、ダァー!!」とコメントした。

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