正室VS側室!6代将軍・徳川家宣 時代の大奥が史上最強にドロドロすぎた件 その2 (1/3ページ)

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正室VS側室!6代将軍・徳川家宣 時代の大奥が史上最強にドロドロすぎた件 その2

前回に引き続き、6代将軍・家宣の正室・天英院VS家宣の側室・月光院の対立を中心とした大奥のドロドロ派閥抗争について、ご紹介します。

前回の記事はこちら

正室VS側室!6代将軍・徳川家宣 時代の大奥が史上最強にドロドロすぎた件 その1

鍋松が将軍就任、月光院が優位に

さて、6代将軍・家宣の死の翌年、正徳3(1713)にわずか5歳の世子・家継が将軍に就任。家継の生母の月光院は側室だったとはいえ将軍の生みの母親ですから、大奥内では正室の天英院を脅やかすほど大きな権力を握ります。大奥はこのまま月光院の天下になってしまうのか!?

絵島生島事件の真相

ところがノリに乗っている月光院派を脅やかす事件が起こります。月光院付きの大年寄(大奥での権力第2位)・絵島が山村座の人気役者・生島新五郎と密通した上に大奥の閉門に遅れるという絵島生島事件です。天英院派の老中はここぞとばかりに絵島をはじめとする月光院派の奥女中らを処罰しました。結果として月光院派の関係者1500人が処罰対象となり、大奥から一掃されました。あまりにも有名なこの事件の裏にも、天英院VS月光院の構図が色濃く反映されていたのですね・・・。

政略結婚で天英院へ逆襲

月光院は、この事件以来あからさまに天英院への敵対心を表すようになり、天英院の父・近衛基煕(このえもとひろ)と朝廷で対立していた霊元上皇の娘、八十宮(やそのみや)を早々に家継の許嫁に決めてしまいます。幕末の14代将軍・家茂の代で初めて実現した「公武合体」政策は実はこの時に画策されていたのです。

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